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“Oldies But Goodies! 君を想う力”(大西信介 × 奥山潔 × 塩川純平 × 田浦リオ)レポート・『少年宇宙人』(4)

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【『魔弾戦記リュウケンドー』】

 原田昌樹監督がメインディレクターを務めて立ち上げから手がけた『魔弾戦記リュウケンドー』(2006)。脚本の大西信介、イメージボードの奥山潔、助監督の塩川純平の各氏が登壇した。

 

大西「『ブースカブースカ!!』では第19話「思い出よびだすメトロノーム」しかいっしょにできなかったんですが『リュウケンドー』ではけっこうやれて、あの作品はぼくにとって大事ですね」

奥山「原田さんとは『ウルトラマンコスモス』(2001)からです。『コスモス』が終わるとき、特撮のチーフ助監督だった日暮正幹さんが、監督みんなにプレゼントしようって。佐川和夫さんには似顔絵、原田監督はマークがお好きだったので馬のマークをつくりました。

 こういう画がほしいと言われて、その場で描いてました。今回はバットマンで、とか」

塩川「テーマを授ける方でしたね。彼は長野博、彼はつるの剛士ってウルトラのイメージで指示してました。

 監督はVシネマ長石多可男監督につかれていて、ぼくも東映で長石監督についたので「同門だな」って言われました(笑)。『リューケンドー』は(ウルトラマンなどと違って)ゼロ発信、原田さんが土台をつくっていった。後にも先にもない作品でした」

大西「ウェットなものでなく派手なのを期待されてたんですけど、原田監督は情緒的なものをやりたかったんですね」

奥山パイロット監督だから、最初はレールを敷くっていう役目。やりたいことはコレ、やらなきゃいけないのはコレって。辻野正人さん、川崎郷太さんの後でまた回ってきたときは、ご自分のやりたいことをやられていました」

塩川「監督は一度手術されてもう痩せられていて、みんなびっくりしました。でも危険な状態だとは知らされてなくて」

 

 原田監督は、女性キャラの演出に力を入れていたようである。

 

塩川「中盤のトンネル編、市律(婦警コンビ「いっちゃん りっちゃん」)のコスプレ編とか、とにかく女の子だらけ」

大西「鈴ちゃん(井村空美)の顔で締めたいという監督の希望もあって、決定稿を変えたこともあります」

 

 飛び入りで、黄金女王レディゴールド役の田浦リオ氏も、わずかに発言してくれた。

 

田浦「私はレギュラーでやらせていただくのが初めてで、試行錯誤で原田監督に訊いて訊いて訊いて。すべてのことが思い出深いですね。現場も愉しかったです」

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【その他の発言】

 『ウルトラマンティガ』(1997)などの石井てるよし監督、『ウルトラマンマックス』(2005)や『牙狼』(2005)などの脚本家・小林雄次氏も少し発言した。

 

石井「『少年宇宙人』(二見書房)、ずっと待っておりました。原田くんも喜んでいるでしょう。お盆には、本を持って行って捧げたいと思います。

 ぼくはジャカルタで(『ガルーダの騎士ビマ』〈2013〉の撮影中に)脳溢血で倒れまして、病み上がりですので、早めに失礼します。『ビマ』は既に仮面ライダーの出来を越えていますが(一同笑)先日オールアップしまして、原田くんが背中を押してくれている気がします。みなさん、インドネシアへ行って見てください(一同笑)」

切通「ぼくは『ウルトラマンガイア』(1998〜99)の放映中に原田さんと初めて会って、そのときの取材はアナログテープです。アナログのカセットは、いまは生産中止になってますね」

小林いまの人はカセットテープを『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)の中でしか知らない(一同笑)」

切通「スタッフの方から珍しく連絡があって、病気であと半年と。いままでの足跡、仕事を振り返りたいから聞き役になってくれないか。(発表の形式は)任せるから、と。半年というのは真に受けていなかったんですが、本当に半年後に亡くなられてしまった。一年計画で進めていたので、半分しか終わらなかった。

 インタビューでは、他のスタッフ・キャストに比べて原田監督は素っ気ない(笑)。こうだからリテイクだとか、感想もおっしゃらない。周りの方が「ああじゃないか」とか言われてて」

 

 逝去の前日、倉持武弘氏らと集まっていたという。

 

倉持「亡くなる前日の夜、みんなに会いたいってスクリプターから呼び出されて、脚本家の太田愛さんとメイクの方とスクリプター、みなで集まりました。ひし美ゆり子さんも後からいらっしゃって「がんばってね」って。最後の晩餐で、これ(写真)は見るとつらい」

 

 逝去から7年を経て、大著『少年宇宙人』が完成。

 

切通「最初は、この本は新聞記事みたいに要約しようかと思ったんです。でも原田さんは、演出でも行間を膨らませる人。お話も同じで、話の行間が膨らんでくから要約ができない(笑)。だからこの本の文字は小さい。ぼくも老眼鏡でつくってて。昭和のゴジラの本は、こんな字で出せないですね。この本は若い人向けです(一同笑)」

小林「原田監督とは2006年の実相寺昭雄監督の葬儀で、一度だけお会いしました。その2年後に亡くなられて、そして今回、この電話帳のような本が(一同笑)」

切通「天国の原田さんから、もっとサクッとやれと言われているような…。

 『リュウケンドー』の山口翔悟さんが、本が出てすぐ原田監督のお墓に行かれて、ブログに上げられていました。お墓はけっこう判りにくい場所にあるのに、どうやって調べたのかな。さすがヒーローだなって」

 

 最後に実妹の弘中いづみさんが登壇。

 

弘中「小学6年生で松本から長野へ行くときに「お前、転校、厭じゃないか?」って言われたから、新しい友だちできるからって答えたら、兄は「へえ」って。今回の本を読んで、初めて兄の気持ちが判ったというか、転校していくときの淋しさが兄のベースなのかな」

切通「現場でも出会った人とのつながりを大事にしていた人なんですよね」

 

 助監督だった『Gメン75』(1975)では、役者と送別会をやったスタッフが馘にされるほど、プライベートのつきあいが厳しく禁じられていたという。だが、原田監督は弘中氏がファンだった若林豪氏を当時兄妹で住んでいた荻窪の近くの喫茶店に呼んでくれたそうな(それほど妹思いだった)。

 

弘中「そのとき、いっしょにいたスクリプターの方に「あなた、何にも喋らないのね」と言われました。でも兄は「いいんだよ」って。

 亡くなる前、mixiで最後の挨拶をしたい、「忘れないでね」と…。何のことだか判らなかったんですが、亡くなってから兄の作品を見返していたら「少年宇宙人」の台詞だと判って」

 

 その台詞は、太田愛脚本に原田監督が付け加えたものだったという。

 

切通「原田監督は、学校へ行かないで映画館に行く映画不良だと伺ったんですが、お母さんも本を読まれて、こんなに映画を見てたのかって初めて知ったと(一同笑)」

 

 最後に、切通理作氏にサインしてもらいました! 

少年宇宙人 ~平成ウルトラマン監督・原田昌樹と映像の職人たち~

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