私の中の見えない炎

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七瀬のおもひで・筒井康隆『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』(2)

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 いま『七瀬ふたたび』(新潮文庫)を読むと、あまりに救いのない結末にカタルシスのなさや投げっぱなしのようなあっけなさを感じてしまうかもしれない。ここにも1970年代が影を落としているのではなかろうか。

 筆者は『ふたたび』を読んで『俺たちに明日はない』(1967)などのアメリカン・ニューシネマを連想する。ラストで主役コンビが機関銃の銃弾を浴びて絶命する『明日がない』は、ニューシネマのとば口とされ、全世界に影響を与えた。 事実、この時期の映画を見ていると、こういう荒涼とした虚無的な終わり方の作品が実に多い。クライマックスでダスティン・ホフマンが結婚式に乱入して花嫁をかっさらう『卒業』(1967)には能天気な恋愛映画というレッテルが貼られているが、最後は主人公の苦々しい顔で終わっている。ニューシネマとおよそ縁のなさそうなスティーブン・スピルバーグ監督の作品でも、デビュー作『激突!』(1971)のラストは、戦いを終えた主人公(デニス・ウィーバー)が夕暮れのなかで虚しくたたずんでいる姿であった。その文脈(?)を考慮すれば、『ふたたび』のラストは何となく納得できないわけではない。

 『ふたたび』はアクション満載なのがよかったのか、先述の通り何度となくテレビ化されていて、よく知られる多岐川裕美主演版(1979)は原作と同じような悲劇的なラストであったという(筆者は未見)。1996年にも水野真紀主演版があり、これも七瀬が死ぬ場面で終わったような覚えがある(見た筈だがあまり思い出せない)。2010年には映画化されて『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)などで知られるシナリオライター伊藤和典が脚色を担当している。この2010年版では、ラストで七瀬(芦名星)がタイムトラベルによって難を逃れるという改変が施されていて、いまの時代に配慮したつくりになっていた(残念ながら出来がいいというわけではない)。

 第3作『エディプスの恋人』(新潮文庫)は1977年に発表された。七瀬が高校に勤めていて、これは時系列としては『ふたたび』の前なのかな? でも七瀬は23歳といってるし『ふたたび』のときは20歳じゃなかったか、などと違和感を覚えていると意外な連関が明らかになるという趣向である。 

 この完結編は七瀬の運命に「全宇宙を支配する母なる “意思” 」が介在していたという設定。ある村に住む女性が失踪して「宇宙に君臨する意思」に生まれ変わった。その宇宙意思が、自分の息子と七瀬とを恋愛させようと画策。女性は、神になってから息子をいじめる子どもなどに対しては「ひどく残酷」で「過保護でややヒステリックなママ」に変容したという。

 

過去のさまざまな神話を思い出してみれば、昔から神といわれていた存在には、神が保護しようとしている者に対して害意を抱く人間への極端な荒あらしい無慈悲さがあるようで、これは神の特質かもしれません

 

 『エディプスの恋人』は、神を批評しようとする試みであった。

 

「(神となった)彼女の行為からは、今のことばでいう教育ママ的な匂いがするのです、でも昔から、孟母以来賢明な女性には必ず教育ママ的な素質があった筈ですし、現在のこの教育ママの氾濫ぶりも珠子という女のものであった人格によって宇宙の論理が女性的なものに変わってきた証拠なのかもしれません

 

 男性の視点から女性の怖さ、滑稽さを批評する意図も感じられ、筆者はテレビ『ウルトラマン』(1966)の第14話「真珠貝防衛司令」(脚本:佐々木守)を想起した。「宇宙の論理が女性的なものに変わってきた」という件りなど70年代に隆盛を誇った女性運動に触発されたのかもしれない。

 こうして改めて読み直してみると、独特な個性を持って超然と屹立するかに思える七瀬シリーズも、やはり70年代という時代の風のなかにいたのだと実感せずにはいられない。 

 あれから40年を経て震災と原発事故、欧米における反格差運動、ギリシャとイタリアの危機など、世界は大きく揺らいで新時代に突入しそうな気配を見せている。混沌とした2012年の世相に『家族八景 Nanase,Telepathy Girls’Ballad』の七瀬はどんな姿を見せてくれるのだろうか。