私の中の見えない炎

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中島貞夫 × 川地民夫 トークショー レポート・『懲役太郎 まむしの兄弟』(3)

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【役者の想い出】 

中島「あのころぼくは鶴田浩二さんと関係が悪くて(一同笑)。ピラニアは鶴田さんの下だから、遠かったんです。彼らの個性の面白さはまだわからなかった」 

川地室田日出男が鶴田さんの周りに行くなって言ってましたよ。彼も鶴田さんとは合わなかったんですね(笑)」

川地「京都は愉しかったですよ。別に怖くなかった。若山富三郎さんとか(笑)。若山さんは、何で?と思うくらい真面目でしたね。あの顔で一滴もお酒が飲めない。で、おまんじゅうが大好きっていう(一同笑)」 

中島「クラブへ行っても酒は飲まない。で、クラブも判ってるからおまんじゅうを持ってくるんですね(笑)。病気で弱ってるときもそうだったから、ぼくはやめろって言ったら「貞夫、ひとつだけ食わせて」ってねえ…。

 で(実弟の)勝新太郎さんは大酒飲みなんです。あの兄弟は、互いに尊敬してましたね」 

川地「会えばけんかなんだけど。お互い好きなんですよ。若山さんはだんだんうまくなられた感じがしますね」 

 

【その他のエピソード】

中島「このころは『木枯し紋次郎』(1972)も何本か、まむしと交互に撮ってたから。色合いが全然違うのに」 

川地「俳優はその間休めるけど、でも監督ってのは気違いですよ(一同笑)。朝から撮って、夜は飲むんだから(笑)」 

中島「反省会だよ(笑)。遅くまで飲んで、セットで血反吐はいて入院ってことがありましたね。で、節食して。

 文ちゃん(菅原文太)に「用意スタートのかけ声に元気がないと、おれも芝居する気になれないな」と言われて(笑)。あのころは1本あたり20数日くらいで撮らなきゃいけない」 

川地「夜、監督は3、4時間しか寝てないですよ。で、どの監督も夜が強い」 

中島「ぼくは弱いよ」 

川地「そりゃ最近でしょ(一同笑)。どの作品でも、最後は3日くらい徹夜で追い込みですよ。ほんとにみんなタフ」  

 

 中島監督の代表作のひとつに東映でなく、芸術志向のATGで制作した『鉄砲玉の美学』(1973)がある。若いチンピラ(渡瀬恒彦)が広域暴力団の鉄砲玉に任命されて舞い上がるがやがて無残に死んでいくという、かっこ悪いありさまを描いた。 

 

中島「『鉄砲玉の美学』はATGのお金がなくて、東映の二番館でもかけてもらえることになって、少しお金が出たんです。 

 主人公が普通の市民生活からだんだん離れていくってところを撮りたくて(その場に)映ってる子どもは、多分偶然撮影を見てたんですね(笑)」  

 川地氏が親しかったのは鈴木清順蔵原惟繕長谷部安春の3監督。蔵原監督は2002年に、長谷部監督は2009年に死去している。 

 

川地「鈴木、蔵原、長谷部、いちばん仲のよかった3人はすべて亡くなられて、あーひとり生きてるか(一同笑)。鈴木さんだけ若い嫁さんもらって。会ったらこんな大きな酸素ボンベつけてて、大丈夫なの?って訊いたら平気な顔で酒飲んでる。3人の中でいちばん年寄りなのに」 

中島「妖怪だな(笑)」 

 

 満員の場内を何となくふらふらしていたら『仮面ライダー電王』(2007)や『仮面ライダーディケイド』(2009)などで知られる白倉伸一郎プロデューサーが目の前を歩いていたので驚いた。東映東京撮影所所長代理である白倉プロデューサーは、中島監督と挨拶を交わした後、普通にそのへんを歩いて席に座った。白倉氏はインタビューやバラエティ番組の仮面ライダー特集などによく登場するのだが、東映やくざ映画のマニアにはあまり顔を知られてない模様。上映が始まる際には、白倉プロデューサーが『まむしの兄弟』を見るのかと思うと、変に緊張してしまった。