つい最近、ある子ども向け映画を見ていたら全編に渡って「あきらめない」「あきらめるな」と連呼されて、うんざりした気分になった。もちろん簡単にあきらめない心も人生には必要であろうが、一定量のあきらめも、また必要なのではあるまいか。そしてあきらめも、なかなか滋味があるものではないか…。
1977年から断続的に描かれた劇画の『天使のはらわた』シリーズ。作者は石井隆。
失礼かもしれないが、筆者の世代はこのシリーズには遅れてきていて、周囲に知る人がほとんどいないので、ついそういう認識になってしまうのである。たとえば1970年から描き継がれている藤子不二雄A『まんが道』は、図書館などに置いてあることもあって、特にマニアでなくても知っているという人にもたまに会うのだけれども『天使のはらわた』が公共施設にあるわけもなく…。
女の名は名美(なみ)、男の名は村木。世界観は毎度リセットされるのだが、女主人公と男主人公の名前は、共通している。
どの作品でも、名美は男たちの禍々しく醜い欲望に翻弄される。そして彼女に出会って転落するのが村木。
どの作品でも、などと書いてしまったが、実はこのシリーズをそれほどたくさん読んでいるわけでもない。『天使のはらわた』は連載スタートの翌1978年から、にっかつロマンポルノのレーベルのもとで何作も映画化された。筆者は『天使のはらわた』といえば、この映画版の印象が強い。
映画では、原作者の石井隆が自らシナリオも執筆している。石井はシナリオ執筆を経て、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)を初監督。以後は、映画監督に転身して『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『GONIN』(1995)などを発表している。
映画版では『天使のはらわた 赤い教室』(1979)、『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)の評価が高く、別にその流れに異を唱える気はないのだが、個人的にお気に入りなのが原作者自ら脚本・監督を手がけた『天使のはらわた 赤い眩暈』である。
1971年にスタートして隆盛を誇ったにっかつロマンポルノは1980年代中盤から行きづまり、1988年に製作終了が決まった。その終焉の数か月前にそっと姿を現したのが『赤い眩暈』である。
カメラマンの男と同棲している、看護士の名美(桂木麻也子)。ある日、名美は患者に乱暴されかかる。帰宅すると、同棲している男がモデルの女を自宅マンションに連れ込んでいた。飛び出した名美は、車にはねられて気を失う。
運転していたのは証券マンの村木(竹中直人)。客の金を使い込み、借金の取り立てから逃げ回る彼は、自分がはねた名美を車に乗せた。
気がついた名美は、当初は村木を厭がるものの、結局ふたりは心を通わせるようになる。再出発を誓うふたり。
ガソリンがなくなったので、村木は名美を待たせてスタンドに行く。そこで彼は居合わせたやくざふうの男(柄本明)にあっけなく殺されてしまうのだった。
何も知らずに、村木を待つ名美。
石井隆の映画の魅力のひとつは、皮相な言い方をすれば、イラストと見紛うような映像の決まり方である。『死んでもいい』(1992)の宙を舞う傘、『ヌードの夜』(1993)のネオンサインなど、石井作品をいくつか見れば即座に思いつく名シーンがいくつかある。
この『天使のはらわた 赤い眩暈』は石井監督がまだ1作目で不慣れなせいか、あるいはロマンポルノの末期で製作条件がよくなかったのか、後年の石井が演出すればもう少し美しいシーンになったであろう場面が散見されて惜しい。名美と村木のふたりのシーンも、役者の演技力に特に問題があるとも思えないのだが、どうも心の動きに不自然さが拭えない。
『赤い眩暈』で印象的なのはラストである。画面が、ほぼ即死状態で仰向けに倒れた村木を見下ろす形で、宙へ浮かんでいく。そして道路に出て高速で動く画面。おそらく魂がぬけていったという意味なのだろう。
来ない村木を、名美はひとり待つ。
「来ませんね」
「またひとりぼっちか…」
ラジカセをいじっていると「テネシーワルツ」が流れ出す。曲に合わせて、ひとりで踊る名美。
「ま、いいか」
そこでストップモーション。映画は終わる。
「またひとりぼっち」だけれど、静かにあきらめる。このシーンに漂うやるせなさ、失望感、かすかな希望は、胸を打つ。ロマンポルノが最後に生み落とした名シーンであろう。
このブログ(http://ameblo.jp/runupgo/entry-10457910595.html)ではリアルタイムでごらんになった方が「(ロマンポルノを終えるにあたっての)にっかつの捨て台詞に聞こえた」と評しているが、たしかに作り手たちにはそういう意識もあったかもしれない。
いろいろあったけど、ま、いいか…
『赤い眩暈』以後、竹中直人は常連となり、多数の石井作品に登場している。