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巨星が墜ちた日 藤子・F・不二雄死去

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 1996年9月23日。

 秋分の日で学校はなく、中学生の筆者は塾の模試をこなして、疲れきって帰宅。その夜には巨匠・大林宣彦監督のテレビ『三毛猫ホームズの推理』があり、録画をセットしようとテレビをつけた。

 そのとき、藤子・F・不二雄がおそらく何かを話し終えて立ち去る映像が、一瞬映った。そして『ドラえもん のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)』の扉絵がしばらく無音で流れて、アナウンサーが「次のニュースです」と告げる。

 何だ…?

 厭な予感が、頭をもたげた。当時はネットも使いこなせなかったので、あちこちチャンネルを変えてじりじりしながら、続報を待つ。

 ようやく『ニュースステーション』が始まり、出演者たちはプロ野球の話題で和やかに談笑。普段なら気にもならない光景が、いらだちを募らせる。のんびりくっちゃべってないで、さっさと情報をくれ!

 10分以上経過してから“藤子・F・不二雄さん死去”の文字が。ああ、やっぱり。予感は的中してしまった。ショックでふるえる相棒・藤子不二雄Aの短いインタビュー映像が流れた。

 

 後になって思えば、悪いきざしはあった。1996年3月に、藤子・Fもかつて居住したアパート・トキワ荘の人びとを描いた映画『トキワ荘の青春』が公開され、藤子不二雄Aなどトキワ荘出身者の記者会見に臨む写真が映画誌を飾ったけれども、藤子・Fの姿はなかった。

 「コロコロコミック」1996年9月号に載った新作『ドラえもん のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』の第1回はどう見ても別人(アシスタント)の作画で、藤子・Fは描いていない。

 そして逝去とは関係ないだろうが、8年つづいたアニメ『キテレツ大百科』が6月に打ち切られていて、凶兆のような気もした。

 

 翌朝、『ズームイン!朝』を見ていたらドラえもん役の声優・大山のぶ代のインタビューがあり、大声で泣いてみせるその映像には引いてしまった(大山は「婦人公論」1996年12月号の追悼鼎談に参加していて、フォローするわけではないけれども、そちらはよかった)。

 

 テレビにやや遅れて、活字メディアも一斉に報じた。「朝日新聞」「読売新聞」は社会面を訃報に大きく割き、「毎日新聞」は一面で報じるなどかなりの扱いで、特に「毎日」は藤子・Fのデビュー作『天使の玉ちゃん』を掲載するなど独自性があった。一方で“夢のあふれた子どもマンガ”という紋切り型の内容も目立ち、「『ドラえもん』放映の当初からかかわったテレビ朝日の高橋浩マーケティング室長」は「悪い人間が一人も出」ないなどと、「放映の当初からかかわった」とはとても思えない、作品の実体と乖離したコメントを吐いている(「朝日新聞」1996年9月24日)。日付は不明だが「朝日新聞」の「天声人語」もやはり「悪人」や「塾に行く」子どもは出てこないなどとのたまっていた(そもそも作中で塾があまり描かれないことは、美点なのか?)。

 逝去から6日後の9月29日に追悼として、おそらく売り上げ(配給収入)が突出していたという理由で、映画『ドラえもん のび太の日本誕生』(1989)がテレビ放映され、筆者は不満だった(『ドラえもん のび太と鉄人兵団』〈1986〉を流せ!)。

 

 そんな趨勢の中で、“澄んだ目の子どもマンガ家”というステレオタイプなイメージを脱する発言をしたのは、村上知彦呉智英である。

 

一九七〇年代の劇画の時代には、ペシミスティックな未来を描いた「ミノタウロスの皿」などを青年誌に発表したこともある。落ち目のまんが家が、タイムスリップによって悔い多き人生を軌道修正する晩年作「未来の想い出」は、自らの青春への覚めた自己批評とも読める」(「朝日新聞」1996年9月24日)

ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)

ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)

 

 藤子・Fに特段の関心もないであろう村上が「朝日」に寄せた追悼文は短いものだったが、批評に飢えた当時の筆者には面白かった。

 呉智英は、NHK教育テレビ(現:Eテレ)の追悼番組『こんなこといいな、できたらいいな 藤子・F・不二雄の世界』に藤子A、福島瑞穂とともに登場した際に、藤子・Fの傑作SF「分岐点」の掲載時の切り抜き(「SFマガジン」1975年10月10日号)を持参して紹介(「分岐点」は『気楽に殺ろうよ』〈小学館文庫〉収載)。マンガに造詣が深いわけでもなさそうな福島がどうして選ばれたのかは判らない(専門外ポジションということか)。

 また「週刊新潮」1996年10月10日号にて、呉は「児童漫画ばかり強調されますが、実はシニカルな面もあり、優れたSF作品も残している」と述べた。

気楽に殺ろうよ (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)

気楽に殺ろうよ (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)

 

 そのほかに「FOCUS」1996年10月9日号は、前年の盟友・赤塚不二夫の還暦パーティーでの藤子・Fの貴重なあいさつを掲載。

 

ギャグが売れて、マンガも売れて、彼(赤塚さん)は地球の重力から逃れちゃっている。ぼくなんか常識的で。うらやましい。追随する勇気はないし。これからもハチャメチャ、続けてほしい

 

 「週刊TVガイド」1996年10月12日号はさまざまな関係者のコメントを載せており、三浦卓嗣・「コロコロコミック」編集長(当時)の「優しくて律儀な先生でした。私がちょっとしたアイデアを提供しただけで、漫画の背景の看板などに、私の名前をさりげなく入れてくれるんです」というコメントがいい。一方でテレビ朝日の木村純一プロデューサー(当時)は「先生と打ち合わせしていた際、僕らが勝手に作品の中身を変更しようとしたら、烈火の如く怒りまして」と、怒った顔をほとんど見せない温厚な藤子・Fが珍しく「声を荒らげた」エピソードを語る(木村についてはいろいろと胡乱な情報があるだけに、納得)。

 

 翌1997年に「藤子・F・不二雄の世界展」を新宿・三越へ見に行った筆者は、これでさよならだと思った。ドラえもんの映画・テレビは続行するらしいが、作者亡き後でつづけてもじり貧になって遠からず終わるだろう、藤子・F作品が脚光を浴びることはもうなくなるだろう、みたいな。

 月日は流れ、2009年から「藤子・F・不二雄大全集」が刊行され、2011年に「藤子・F・不二雄ミュージアム」がオープン、2014年には番外的なCG映画『STAND BY ME ドラえもん』が大ヒット。映画・テレビはもちろん継続し、ドラえもんグッズは巷にあふれている。ネットなどでのファン活動も隆盛を誇り、今年9月3日(ドラえもんの誕生日)には東京・北海道・名古屋などから数十名ものファンが集結する飲み会が行われ、筆者も末席に連なった。

 終わりじゃなかった、始まりだった。逝去から20年、いまはそう思いたい。

 

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