私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

那須博之の志と死・『ビー・バップ・ハイスクール』『紳士同盟』(1)

 最近、不評の映画がネットで炎上し、罵倒の中に「令和の『デビルマン』」という文句があった。那須博之監督の映画『デビルマン』は2004年に公開されてすさまじい悪評が立ち、以後は不出来な作品を非難する際に「〇〇版デビルマン」などいう惹句が出てくる始末であった。筆者にとっては別に思い入れもなく過ぎ去った風景のひとつに過ぎないのだけれども、ある悲哀を感じなくもない。

 学生時代に深作欣二監督『仁義なき戦い』(1973)などに影響を受けた那須博之は、卒業後に日活に入社した。

 筆者が那須に関心を持ったのは、『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)や『デスノート』(2006)などの金子修介監督が先輩である那須の名前を幾度か挙げていたからだった。金子は自身のサイトで回想する。

 

那須さんには、カチンコの叩き方・バイクの乗り方・東南アジアの歩き方など教わって、日活時代では、どんな監督よりも影響を受けた。

この人、都立西高~東大法学部(引用者註:経済学部の誤り)出てるが、パッと見はヤクザにしか見えない。

その那須さんとの根岸根岸吉太郎組現場で、休み時間の会話。


「ナスさんて、監督では、誰なんか好きなんです?」


「そりゃ、おめえよ、フカサクしかいねーだろ、フカサクしかよ」


「そーですよね、フカサクしかいないっすよね」


「そーだよ、フカサクに決まってんだろ」


やっぱり、那須さんは良く分かっているな、と思ったのだった」(金子修介のサイトより引用)

 

 青年時代の那須は海外旅行に手慣れていたそうで、金子は80年代に那須とバリ島に行き、現地で那須と別れて「単独でインドネシア本島に渡り、民家に泊めてもらったりしながら猿岩石のようなバス旅行をして、シンガポールを経て、台湾で那須さんと偶然再会」したなどと回顧する。金子はその後も「台湾で2、3日那須さんと」遊んだそうで、ふたりの親しさが伺える(『ガメラ監督日記』〈小学館〉)

 若き日の那須はエッセイにも海外体験を記している。

 

世界を旅して、常に刺激的なことは、都市が始まる時の、あの臭いと音との生理的な緊張感である。私はいつも、見知らぬ都市の中に迷い込み、勘とキュウ覚だけで、女を探り当て、歌と踊りと熱狂を捜し出し、暴力と危険とを見抜いてきた。

 思うに、都市の面白さとは、その都市の持つ妖・狂・聖の、臭いと形と音であろう。ちなみに、女の値段は、その街の物価を、女の寝室は、その街の生活形態を、女のまなざしは、その街のモラルを、女の居住区は、その街の治安そのものを予告している」(「キネマ旬報」1982年6月上旬号)

 

 にっかつロマンポルノの『ワイセツ家族 母と娘』(1982)により監督デビューした那須博之東映に移籍したようで、『ビー・バップ・ハイスクール』(1985)に始まるシリーズをヒットさせる。脚本は妻の那須真知子が担当した。

彼女(引用者註:那須真知子青山学院大卒で、ともに昭和二十七年生まれと若い。

「ハードポルノ路線では、にっかつも那須監督に期待していたようです。“ビーバップ” のヒットでもう古巣には戻らないでしょうが、ポスト根岸吉太郎ともいうべき逸材。それにしても仲のいい夫婦ですよ」(映画記者)

 さてこのおしどり夫婦、低迷の邦画界を救えるか」(「現代」1986年9月号)

 

 筆者は後追いで『ビー・バップ』を面白く見たが、作家の小林信彦も好意的に評する。

 

那須真知子の脚本では、とうぜんというか、ヒロイン(中山美穂がテレビではうかがえぬ魅力を見せる)とツッパリ少女(宮崎ますみ)が気持ちよく描けている。ラストの大喧嘩は、青空のはずが、とつぜん、『七人の侍』のラストのごときどしゃぶりになり、監督(那須博之)の才気をうかがわせた。全体として感じのいい佳作であり、ディテイル(セーラー服と男の制服の位置をツッパリ二人とヒロインが直す件り等)が優しい」(『コラムは笑う』〈ちくま文庫〉)

 その小林の小説を映画化した『紳士同盟』(1986)の際のインタビューでは、那須は「直感」で映画を制作すると語る。

 

だいたい映画っていうのはクランク・イン前に決めたことがすべてなんですよね。それ以上のものはまず現場では出ないだろうし、仕上げでなんとかなる、といったこともない。クランク・イン以前にフッと思ったことをどうふくらませてインするかが勝負でね。で、イン前というのは衣裳合わせでしか役者を知ることができない、実際の芝居も知らないし。そういう数少ない情報の中で判断しないと。だから直感ですね、そうなると。直感を大事にして、それで走ってしまう。(しばし、直感、直感と繰り返す)」(「キネマ旬報」1986年12月上旬号)

 

 この時期の那須は日本の娯楽映画を「グレード・アップ」させる意欲を表明していた。

 

日本における娯楽映画を、できるだけグレード・アップ、レベル・アップして、少なくとも香港映画に負けないものを作りたいし、欲をいえばアメリカ映画位のとこまでいきたいなと思う(…)

 映画ってやっぱり個人的に持ってるノウハウが必要だと思うんですよ。アクションひとつとっても、なんでもなくやれるってもんじゃない。香港映画はやはりこの10年位の蓄積があって、ジャッキー・チェンのああいうボディ・アクションがあるんだと思う。こうやればこうなるというノウハウをアクション映画の中でやって、まず香港映画に勝って、そのあとアメリカ映画の『ブレードランナー』とか宇宙もののあの技術のノウハウを身につけて、とにかくもうちょい、全体に映画をいわゆる映画らしい映画の方向にもっていかなくちゃ。それはあるひとつの映画を企画して金を集めればいいってもんじゃないと思う。もっとふつうの映画をやってく中でノウハウを蓄積して、安い予算の中でそのノウハウを発揮していく、というかんじじゃないと。そういうことを10年、20年のプランのもとにやりたいと思う」(「キネマ旬報」1986年12月上旬号)

 ジェームズ・キャメロン監督への意識も話している。

 

ビー・バップ・ハイスクール』は安いわけです。でもキャメロンに負けず劣らずのアクションがやれるはずだと。もっともキャメロンは最初から “生きるか死ぬか” という設定でやってるでしょ。『殺人魚 フライングキラー』にしても『ターミネーター』にしても『エイリアン2』にしても。『ビー・バップ・ハイスクール』との決定的なちがいはそこでね。こっちは高校生のケンカですからね。しかし絶体絶命に陥るってことはケンカでも同じですから」(「キネマ旬報」1987年4月上旬号)(つづく