南海の孤島に出現した怪獣と宇宙からの侵略者。居合わせた日本人が現地人と、旧日本軍の残存兵器で迎撃する。
『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(1970)は、地味な怪獣とスケールの小ささによりマイナーな扱いだが、手堅いつくりが光る小品佳作。知性を持つ宇宙生物がイカなどの生物に取り憑き怪獣化させ、人間の中にも入り込むという展開は、ホラー色が強い。外部から敵が来るというだけでなく “内からの恐怖” を感じさせる、時代に先駆けたものだとして積極評価する声もある(佐藤健志『さらば愛しきゴジラよ』〈読売新聞社〉)。
5月、『決戦!南海の大怪獣』のリバイバル上映と、島の娘・サキ役の小林夕岐子氏のトークショーが行われた。
小林氏は『怪獣総進撃』(1968)や怪奇ショッカー映画『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』(1970)などのヒロイン役で知られ、テレビ『ウルトラセブン』(1967)の第9話「アンドロイド0指令」のアンドロイド役のイメージも強い。上映スタート直前に小林氏がいらっしゃり、後方の席で映画をご覧になっていた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
小林「スクリーンで見たのは確か銀座シネパトス、あそこで昔やったことありませんか? やるとお知らせいただいて、伺ったことがあります。(公開時には)みゆき座で見ました。それとシネパトス。(スクリーンで見るのは)3回目ですね。完成試写はあったかもしれません。撮影所でラッシュも見たり。
劇場で拝見させていただくのは何回もない。ですからとても嬉しく思います。あんなシーンもあったかしら、あそこにも私、そんなにいるのかしら、なんて」
【養成所時代】
小林「岡田茉莉子さんと吉田喜重さんの結婚式に伺って。私の母が宝塚で岡田茉莉子さんが上級生で、よく麻雀していて、今度結婚式があるから来ない? って。伺ったら、撮影所の所長さんがいらして、東大を出て東宝に入って宝塚の幕引きをされていたので、それで母と知り合いで。私に養成所に入ってみないかと。私は女優になるつもりはなかったのですが、遊びに来ないかって言われて、それで養成所へ半年。最後に試演会があって、東宝の重役さんもいらしてました。
父は役者で、いくつか誘いもありましたけど、私はなりたいと思いませんでしたね。母は他のところよりも東宝さんなら娘を預けてもいいんじゃないかと。私は小さいときから楽屋へ行って、お風呂にいっしょに入れてもらったり、親戚のような感じで、全然思いもなくて。
養成所で私の同期は33人。私は6期か7期くらいかしら。午後1時から6時まで、1日2科目ずつみっちりと。終わったら階段登れれないくらいハードでした。有楽座の裏から入って、着替えるときは映画の音楽が聞こえました。(講師には)東郷静男さん、山本嘉次郎さん、宝田明さんがいらして、いろんなお話をしてくださいましたね。(クラスは)舞台や映画など分かれていて、私は入ったときから映画でした。おはようございますって言ったら、すぐレッスン。あまり(同期と)お話することはなかったです。声楽、お芝居も大変で、着替えたらすぐ次の授業があって、交流する時間もない。当時は、交通費はもらっていました。
試演会では、私は戯曲を抜粋した二人芝居を。相手は沢木順さん、いまでも仲良しです」
【『ウルトラセブン』】
小林「養成所を出てからは、成城の(東宝)撮影所へ行って、セットの感じとか(見学した)。『お嫁においで』(1967)はウエイトレス役で、同期生がみんな出てました。
すぐ『ウルトラセブン』で1967年ですか? 東宝のセットは広くてびっくりしたんですけど、『ウルトラセブン』は小規模な感じで、大きさは全然違いました。
(金髪は)かつらです。『血を吸う人形』でもかつらでしたね」
後半の戦いは夜のデパートで繰りひろげられる。
小林「新宿の松屋で、閉店後に撮影しました。暗くて静かで怖かったです。本番になればライティングしますけど。無人のデパートって怖いですね。
私自身は夜型で、夜は全然大丈夫です。むしろ朝暗いうちに家を出るほうがつらかった(笑)。
『セブン』は、放送のときは見なかったと思います。後になって『ウルトラ情報局』に出していただいて、それまで見たことなかったんじゃないでしょうか。『セブン』をみなさんに見ていただいてるなんて思いもよらなくて。4、5年前に私のフィギュアができて、40年も経って(笑)。家に飾ってあります」
【怪獣映画の想い出 (1)】
『お嫁においで』『怪獣総進撃』『南海の大怪獣』の3作品は『ゴジラ』(1954)の名匠・本多猪四郎監督。
小林「『怪獣総進撃』でも『南海の大怪獣』でも、台本ができたと言われて伺って。読んで、あ、この役なのって。
『お嫁においで』はあまり覚えてなくて、『総進撃』で初めて本多先生にお会いした感じでした。現場ではとても優しくて、あまり注文はおっしゃらず、とっても穏やかな紳士でした」(つづく)