映画評論家・文芸評論家として圧倒的なカリスマ性を誇る蓮實重彦のトークショーが、昨年12月に渋谷にて行われた。
近年も『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)、『伯爵夫人』(新潮文庫)などで気を吐く蓮實先生だが、今回は氏のセレクションによるアメリカB級映画特集というコンセプトで上映が行われた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
きょうは聴衆の中に私が敬愛する瀬川(瀬川昌久)さんがおいでですので、私も緊張しております。緊張すると何を言い出すか判りません。
まず最初に数字を上げさせていただきます。
63、68、71、72、72、73…(途中からメモしきれず)
この数字は何でありましょうか。お判りですよね。今回選んだ90分以下の作品の長さです。ごく普通に撮っていて、78分くらいが多いということが判ってまいります。映画にとっての存在論的な数字というものがありますが、相対的な数字でもあるわけです。上映時間というのはどれがどうなってもかまわないわけですが、相対的であるがゆえに必然的であると私は思っております。『夜の人々』(1948)は90分以下の作品群に入っておりません。90分以下はB級と思っていただいていいのですが、すべてB級ではないし、90分あってもB級は存在しているわけでございます。
『夜の人々』は96分です。最近の96分の作品で覚えておられるものはあるでしょうか。『カメラを止めるな!』(2018)であります(一同笑)。不遜なことにニコラス・レイの第1作『夜の人々』と同じ上映時間であると、あの上田(上田慎一郎)さんという監督は考えたことがあるのか(一同笑)。ゾンビの襲撃よりおそろしいと考えております。前半部分は素人なりによしとしようと思うのですが、後半は撮れていない。ショットが活きていない。そもそもカメラとはテレビのものであって、映画ではキャメラと呼ぶのが小津(小津安二郎)さん以来の伝統です。すると見ていきますうちに(ストーリーが)テレビの話で、ああそうかテレビだからカメラなのか。1カメさん、2カメさんと亀みたいな(一同笑)。ニコラス・レイの第1作と同じ上映時間であることにおびえがない。信じがたいことだと思いました。
上映時間は相対的なものですが、たまたま撮ってこうなりましたという形の映画にろくなものはない。語られるべき題材、語っていくうえの画面の持続は相対的であるにもかかわらず、あらゆる優れた映画は上映時間が決定的になってしまう。上映時間という問題を考えなくてはいけない。黒沢清さんがあるとき「100分超えちゃいました。ごめんなさい!」と。別にぼくに謝らなくてもいいんですが(一同笑)。ほぼ90分くらいが『ハリウッド映画史講義』(ちくま学芸文庫)で扱ったB級映画の本来の長さであるわけです。
ジャン・リュック・ゴダールというスイス在住の作家の悪口を言うことになるわけですけれども、ゴダールは『夜の人々』について「予算はB級だが、精神はA級だ」と言った。しかしこれはB級映画ではない。7500万ドルかけた作品であって普通のものです。キャシー・オドネルとファーリー・グレンジャーというそれまで1度しか映画に出ていないふたりをつれて来ていて、ゴダールの言葉を信じておられる方がいるかもしれませんが、決定的にゴダールが間違っていてここでゴダールにお仕置きをしたい気持ちです。簡単に言うなと。B級A級というのはそんなものではない。
今回お目にかける27本の中で最も完璧な語りの経済性に収まっているのはエイブラハム・ポロンスキーの『悪の力』(1948)ですね。素晴らしい映画で、ポロンスキーは赤狩りで牢屋に入り、ハリウッドでまた復活しましたが、ぜひとも絶対にごらんになってください。見ていただけなければ次回はお話いたしません(一同笑)。役者といいショットといい展開といい、87分にしっかり収まっています。(つづく)