私の中の見えない炎

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寺田農 × 中堀正夫 × 高橋巖 トークショー レポート・『実相寺昭雄の世界 -ウルトラマン創作秘話-』(2)

【実相寺監督との出会い (2)】

中堀ジャミラのとき(『ウルトラマン』〈1966〉の第23話「故郷は地球」)は、特撮がいい加減で(ウルトラマンが水を手から発射するシーンは)手の間にホースを挟んでるだけなんですね(一同笑)。スーツの体の中にホースを通せばいいのにそんなことやってないから挟んでるだけで、だからホースが映らないほうにしかカメラを置けない。こんなかって思っても下っ端だったんで言えなかったんですが。

 最後にジャミラに水をひっかけるシーンで、普通の監督は特撮の現場には来てないんですが、実相寺さんに限っては必ず来て。特撮監督もいて、実相寺さんはあんまり指示しないんですけど、これはっていうときには出てきて「万国旗をつぶせ!」って。カメラが3台回ってて、そのうちの1台がつぶすのを撮る。赤ちゃんの泣いてる音をつけるって、そのときから考えてたとは思う。現場でぱっといろんなことをつかみ出して撮れ撮れって言ってましたね」

【現場での想い出 (1)】

中堀「『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』(1967)、『怪奇大作戦』(1968)から始まって、映画をやりたいと思って映画は『無常』(1970)から参加したんですが。最初の現場は五ケ庄っていって奈良と京都の間です。見事にすごく日本っぽいところで、ぼくのふるさとは信州の松本と金沢なんですけど、そういうところが昭和25〜26年の子どものころに自分をつくってくれた場所なんですが、五ケ庄はぼくが育ったところよりももっと素晴らしい日本家屋があったりして。川が流れてる両横に、日本家屋が建ってるんだけど、そのときに監督が見た目のままに撮るんじゃなくてむちゃくちゃやってほしい、ワイドのレンズだけにしろって。そのころのワイドのレンズは9.8ミリで魚眼レンズほどじゃないけど、川の中に入って撮ると(両側の)壁がぐっと曲がっちゃう。普通に綺麗に撮るな、極端なワイドで曲がりに曲がっていいから、そういう撮影をしてくれって言うんですよね。ぼくはモーターを持って稲垣(稲垣涌三)さんがカメラだったんですけど、何て不思議というかよく判らない。それからずっと長い間いっしょにやるんですけど。

 監督は字コンテの通りに撮ってくんですけど、こう撮れとは自分から説明しないんですね。「おれが言ったことをお前が頭の中でどうしようといいから考えて撮ってくれ」。師匠は実相寺さんだけなんですけど、言葉できちっとはひとつも教えてくれなかったですね。いつも現場で監督はこう思ってるんだなと理解しながら教わってきたというか」

高橋「稲垣さんとは映画2本やった後で別れちゃって、中堀さんのカメラになって。中堀さんも外れかけて、また戻ってくる流れがありました」

中堀「監督は中国の砂漠に近い張家口で育って、日本の美しいところを一切知らなかったんですね。ぼくは日本の美しいふるさとで育ったから、監督を何か助けることができるんじゃないかなってずっとついてた。

 監督を裏切ったわけじゃないけど、違う人から映画(の依頼)が来たら監督から電話がかかってきて「いまお前映画やろうとしてるのか」っていうから、監督以外の人とやったことなかったんで1回はどういうものかちゃんと見て来たいって言ったら「余計なことすんじゃねえ」(一同笑)。それから1年ちょっとは(連絡が)一切なくなっちゃったんですね。そんなとき事務所に行ったら倉本聰さん脚本のドラマ(『波の盆』〈1983〉)の台本があって女の子に読んでって言われて。こんなのが来たんだ、やりたかったなあと思ってたら2週間後に監督が「お前、読んだか。これやるから」って」

寺田「実相寺に限らず映画監督ってのは嫉妬深い。実相寺だったらカメラは中堀、照明は牛場(牛場賢二)で美術は池谷(池谷仙克)さんと決まってる。ジッソーはしょっちゅう映画撮るわけじゃないし、みんなだって生活があるから他のことをやってる。でもするとジッソーはむっとしちゃう。そうやって離れていったメンバーもいる。それに中堀とか牛場とかは自分が育てたってのがあるから、他の監督にテクニックを使われちゃ困るんだってのもありましたね。私にも「あなたはいいよね。どこでも調子よく行って」って。だけどおれはあんたの専属じゃないんだから」(つづく

 

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