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清水綋治 × 中堀正夫 トークショー(実相寺昭雄監督特集)レポート・『悪徳の栄え』(2)

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【現場でのエピソード(2)】

清水「実相寺は名監督じゃないんだよ、ほんとは(笑)。あの時代にあれだけやっちゃったのは珍しい。名作を目指してたわけでないのは明らかだから。

 (『宵闇せまれば』〈1969〉)当時から変な人でしたね(一同笑)。それが大島渚さんの本でね、ストイックに撮ってましたから」

中堀「描く力はやっぱりあるんだなと。最初に『無常』(1970)についたとき、何でこんなことすんだよって判らなくて。でも理解しないとやってけねえよな。女の人でも男の人でも頭の上にカメラ置くのよ?」 

清水「それは美学としては判るけど、『風』(1967)では時代劇でちょんまげで走ってるのを逆光でとか、人の顔が変なところに映ってるとか、そんなの必要あるか(笑)」

中堀「次の作品のことを考えてるから『風』の清水さんが出てるやつと『怪奇大作戦』(1968)の「京都買います」が、全く同じところでロケしてる。ずる賢いっていうか、人の金を使ってロケハンも(一同笑)。やっぱり頭切れるんですよね。海軍大将の血を引いて(笑)」

中堀「ぼくはこの監督と一生やりたいとほんとに思ったんですよ。面白いから。『無常』のときに、稲垣(稲垣涌三)さんがカメラで、監督は「お前、違うんだよ。カメラの高さを2センチ下げろ」とか。何言ってんだよとか思いながら。準備できると、自分が買って来た本を置いてくわけですよ。明治から昭和への時代背景みたいな本を見えるように置く。この主役の人を育てたものはこれだと。芝居をやってる人は全く無視で(笑)。改めて『無常』を見ると、本が飾られてて」

清水「『曼荼羅』(1972)は見るの厭でね(一同笑)。インタビュー受ける前に見とこうと思って見たけど、アドベンチャー物としてはできてますね。わけの判らない世界に入って旅してしまうという。こういうアプローチをした人もそういないし」 

 小池一夫『首斬り朝』(グループ・ゼロ)を映画化しようとして流れた企画は、清水氏の主演が想定されていた。

 

清水「『首斬り朝』をやろうって言われて「何でいまさらやるの?」。こっちも生意気だったから(笑)」

中堀「『歌麿 夢と知りせば』(1977)だって、ほんとは清水さんだったけど」

清水「おれも意固地なとこがあってばかだった。『ウルトラマンダイナ』(1998)のときは、金かけて大丈夫かよって(笑)」

中堀「「京都買います」の斉藤チヤ子は好きでしたよね。その人に興味持ったらとことん」

清水「あんまり人間に興味なさそうだよね。興味持たれても困るんだけどさ(一同笑)。いい出会いではあったですよね。死なないでもっと撮ってくれたらいい役者になれたのに(一同笑)」

 

 中堀氏は実相寺組の常連スタッフで、つき合いは長い。

 

中堀「違う監督とやってみたいという思いがあって、実相寺監督に相談しないで、池谷さんに呼んでもらって行ったことがあるんですよ。『蜜月』(1984)っていうので、お金がなくてロケセット。打ち合わせをしていたら、監督から電話かかってきて。おれは監督とずっとやりたい、ただ1回は外でどうやって撮るのか見たいからやりますと。監督は「余計なことは覚えるな」 (一同笑)。実相寺監督のつくるような画は出さない。監督が見たか判らないけど、帰って同じ事務所にいるのに1年半仕事がなかったです」

清水「どこまで同じスタッフでつくっていくか。刺激がなかったらつまんないだろうし。ただこれだけの作品(『悪徳の栄え』〈1988〉)が撮れたというのは、チームワークであるし、感じてることが判るからだよね。見てる人もがまんしてるかもしれないけど、スタッフも相当がまんしてるし(一同笑)」

 

 『帝都物語』(1988)は、当初は『悪徳』の岸田理生脚本だったがキャンセルされてしまったという。

 

中堀「『帝都』は、最初は理生さんの本だったからいいと思ったけど。もう、いっぺん引き受けたものをやめたとは言わないでやっちゃおうとやる。ただ棄てていく。ばらつきがあるけど、ただこの『悪徳の栄え』と『屋根裏の散歩者』(1994)と『D 坂の殺人事件』(1998)はそういうのがない」

【実相寺監督の人間像(1)】

中堀「生まれたのは東京だけど、育ったのは中国。中国への思いを描きたかったはずだけど、やらなかったですね。中国は上海へジャズを撮りに行っただけですよ。何度も中国に行くチャンスがあったのに、直前になると「おれ、やだ」って。日本航空のPRを撮るので中国の都市を回るっていうのがあって、でも何故か2週間くらい前におれは行かないって。やっぱり(中国には)つらいことが多すぎた」(つづく)