私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

飯島敏宏 × 小倉一郎 × 仲雅美 トークショー(2018)レポート・『冬の雲』『それぞれの秋』(3)

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【『冬の雲』(2)】

飯島「(『冬の雲』〈1971〉の)1回目の本読みが終わった後の稽古場で、木下(木下惠介)さんが「飯島くん、相談がある。あの人、どうしても違うんだけど」って。それが早川保さん。お詫びして降りていただいて、その代わり別の番組に出ていただいたけど。お酒飲むと「木下惠介のバカヤロー」って。早川さんのタイトル見ると思い出すね。

 木下さんの弟子じゃないから、ぼくは怪獣の監督なんで(笑)。でもお酒を教わったのは木下さん。個人的な話もして、『二十四の瞳』(1954)は小豆島で百何日やって「あるとき秀ちゃん(高峰秀子)がね、先生お願いがありますと。きみだってどきんとするでしょ。善三(松山善三)といっしょになりたいと。つらかったよ、きみ」。きみだっては余計だね(笑)」

「クランク・インのころは短い頭でポスターも撮ってたけど、ぼくも近藤(近藤正臣)さんも髪伸ばし始めて」

飯島「木下さんは長髪を厭がって(笑)」

 

【木下プロのエピソード】

飯島「( “木下惠介 人間の歌シリーズ” は)年に50話以上あって、正月は休みだけど、それを7年ぶっつづけでしょ。基本は13話(3か月)で、ひとつスタートするともう次の企画で大変だった。考えて、木下さんにこれどうですかと。木下さんからっていうのもあって。営業とも調整して、キャスティングして。1本視聴率悪いと、営業に「指詰めろ」って言われて(13話から)12話にされる。おかげさまで “人間の歌シリーズ” はそういう目に遭わなくて、編成に「木下プロは器用だね。ひと桁でスタートしても終わるころにはふた桁になってる」って(笑)」

「受けるような形でつくらなくていいって言ってくれるのはすごいよね」

飯島「スポンサーのシャープへ行ったとき、宣伝部長が出てくるだけじゃなくて、宣伝部の人全員が出て来て議論する。新しい会社だと思ったね。久光製薬は行儀がよくてね、廊下を行くと社員がスッとお辞儀する。

 木下さんは「二流の会社(スポンサー)は断っていらっしゃい」と言うんだけど(笑)。

 木下惠介プロでは、井下(井下靖央)くんとか山田高道とかディレクターをTBSから引き抜かなきゃいけない。それでぼくがTBS制作部へ行くと「人さらいが来たぞ」って(笑)。5年経って木下プロになったころ、人事部に呼び出されて「出向は3年が限度だ。井下くんが出向して、もう5年だよ」って。それで泣く泣く井下くんを戻した。井下くんも木下プロに残りたかったと思うけど。規定で3年が限度って、それじゃぼくはどうなる? ずっと出向しっぱなしですからね(笑)。

 人間の歌シリーズは、スタッフがTBSの職員2待遇。全部高卒の新人がやってたの。だから本局制作のドラマに対して、対抗意識がすごかった」

小倉「お昼休憩でも早めに終わらせて、カメラマンはセットに入ってましたね」

「カメラマンの人の子とうちの娘とが小学校の同級生でした。力ちゃん

小倉「石垣力というカメラマンで、その後でスイッチャーに出世しました。テレビは編集しながら撮ってる」

飯島「いまはそれぞれのカメラに録画して編集は後でできるけど、あのころはカメラがたくさんあっても1本のテープしか録画できない。だからスイッチャーが下手だと遅れるんですよ」

小倉「Aキャメ、Bキャメで撮ってて、このカメラが着いたときに振り返りたいってカット割り。ところが来たときに振り返ってたっていうことがあるわけじゃない? そういうとき井下靖央さんは絶対に妥協しなかったですね。ここで振り返ってほしい、だからもう一度って」

飯島「来たなって芝居したんじゃ間に合わない。いまだったら編集できちゃうけど、当時は最初から」

 

 山田太一脚本『それぞれの秋』(1973)は特に評価が高い。演出は井下靖央。

 

小倉「『それぞれの秋』で最高36回やり直した。小林桂樹さんがぶつぶつと何か言ってるなと思ったら「自分との戦い、自分との戦い…」(笑)」

飯島「井下くんも初めてのメイン演出で力入ってたね」

小倉「木下プロは何かをナメた画が多かったですね」

「花ナメとか銅像ナメとかね」

小倉「重心から外れちゃうことがある。「小倉、位置違う!」って言われて、ちゃんと立ってるんですけど。稽古段階から厳しかったですね。テレパックは1日4時間くらいだけど、木下プロは10時間。厭でも覚えちゃう」

「それでお昼になるとお弁当届いて(笑)」

飯島「当時、お弁当は贅沢だった。料亭からとってたね。松竹から大橋さんっていう制作のベテランの方がいて、贅沢はしても予算はぴしっとしてました」

小倉「木下プロのギャラは高かったですよ。新人としては」

飯島「ギャラは大橋さんがやってました。

 他の番組より、木下惠介プロの画はちょっと赤っぽいんですよ。カラーコンディションをするでしょ。こういう色調で映画に近づけた。フィルムで言うと、アグファカラーに近い。赤基調になってる。

 『夏の別れ』(1973)では蓼科高原のロケで、中継車と電源車で行って大変。真野響子さんと田村正和くんのツーショットのシーンがあったの。真野さんは新人でしょ。「好きだなって思うまで(カメラ)回しとくから、好きだなと思ったら行きなさい」って言ったら、回し始めてもいつまで経っても行かない(一同笑)。余計なこと言っちゃったかな。

 立ち回りの人もつれてったんだけど、真野さんは宇野重吉さんのお弟子さんでしょ。だからいつも全力で、暴漢に襲われる逃げるシーンも全力で走る。すごい速さで、襲う人が追いつかない。走ってるうちに中継車のカメラのレールもなくなっちゃう(笑)。真野さんは大物新人だったね」

 

 久我美子もシリーズの常連だった。

 

小倉「久我さんはこのとき40代かな。子爵のお嬢さんで、女優になるとき周りに反対されたでしょって訊いたの。そしたら「子爵ってのは名前だけで、貧乏だったの」って。だから女優になるのは喜んでくれたって(笑)」(つづく