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私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 × 三田佳子 × 嶋田親一 × 中村克史 トークショー レポート(1)

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 国会図書館にて、脚本アーカイブスのシンポジウムが行われて、脚本家の山田太一先生が参加。他に三田佳子、『6羽のかもめ』(1974)などの嶋田親一プロデューサー、NHKに在籍した演出家の中村克史の各氏が登壇した。司会は岡室美奈子早稲田大学演劇博物館館長が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

山田「脚本アーカイブスの集まりに、こんなにたくさんの方が来られて、恐縮しております。

 新藤兼人さんが晩年におっしゃっていた、胸を衝かれる言葉がありまして。人生には5つの恩がある、母の恩、師の恩、友の恩、妻の恩。これは男性の、しかも特別な方の言葉ですから、父の恩はないのかな(笑)。5つ目が遺産の恩。先人の書いたシナリオや戯曲で自分は成長し、それが土台になっている。これは(図らずも)アーカイブスのことを語っていると、感動しました。私たちは現在、未来だけで生きているのでなく、過去の積み重ねで生きているのです」

 

 嶋田親一氏は、フジテレビ開局の試験放送のドラマ『執刀』(1959)のプロデュース・演出を手がけた。心臓外科医のドラマだったという。

 

嶋田「開局前に試験電波でつくるということで、“何やってもいい”と。テレビの先輩は映画なので、映画みたいなものをつくりたい。新国劇からラジオのニッポン放送に移って、テレビに参加したんですが、映画のスーパーインポーズ(字幕)がかっこよくて、あれがやりたい。

 当時のフジテレビはお隣りが東京女子医科大で、榊原先生に監修していただきました。(出演者の)大塚道子さんと滝田裕介さんは、ニッポン放送のころからのおつきあい。試験電波ですから、社員と家族くらいしか見ていない。大塚道子さんも亡くなりましたけど、関係者も生きていたら…。

 (医療ものだから)ドイツ語の台詞があって、日本語のスーパーインボーズを入れないと判らない。映画にあこがれる、テレビ屋の儚い夢ですね」

 

 嶋田氏は、三田佳子氏の名付け親でもあったという。

 

三田「私は東映でデビューしまして、今年で55年目なんです。何も判らない高校1年のころに、本名の石黒嘉子でラジオに出たりテレビに出たりしていまして。嶋田さんが、(その名前は)見かけと合わない、もっと優しい名前がいいよって。私は、ヨシコという音は残したい、ひばりやすずめじゃなくて(一同笑)。嘉はカと読むので、同じくカと読む佳で佳子。女子美大でしたので、学園祭に慶應の学生が来て、だから慶應が好き。嶋田さんは“ああ、ぼくたち早稲田だな”って(一同笑)。慶應は三田だから、三田佳子と(笑)。

 『アーラわが君』(1969)は、たらちねのお姫さまが下町に舞い降りてくる。(放送後に)街を歩いていたら三田さんでなくて、“あやのさん”って(役名で)呼ばれたの。テレビにはものすごい力があったんですね。松木ひろしさんの脚本でした。

 私にとって脚本は命で、1000冊近く持っていましたのをこちら(脚本アーカイブス)に寄贈しましたので、命をはぎ取られるような淋しい思いをしたんです。でも国の保存機関で、私の書き込みなども入れて残すこともできました」 

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 中村克史氏は、『男たちの旅路』(1976〜1982)、大河ドラマ獅子の時代』(1980)、『日本の面影』(1984)などで山田太一先生と組んだ。

 

中村「(『男たちの旅路』の台本をパワーポイントで映して)台本の表紙には、(タイトル部分に)紙を貼りつけてあります。最初は山田さんと “俺たちの旅路”っていうタイトルをつけたんですが、準備しているときに民放で鎌田敏夫さんの『俺たちの旅』(1975)が始まって、それで変えました。すると桃井かおりさんが怒りましてね、“「俺たち」だから私出たのに、「男」って!”って(一同笑)。

 山田さんのホンは、台詞やト書きをその通り撮っていれば、リズムができている。でも『男たちの旅路』では森田健作さんと水谷豊さんの若者がグラウンドで走ってしごかれて、教師が“一に忍耐、二に忍耐、三四がなくて五に忍耐”って言うと若者は“肉体”っていたずら書き。これはアドリブで、山田さんがいちばん嫌う(笑)」

山田「面白いと思いました(一同笑)」(つづく)