私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

三谷幸喜と西村雅彦(西村まさ彦)(1)

 舞台『笑の大学』(1996)の映像をふと見返していて、西村雅彦(西村まさ彦)の好演に改めて感嘆した。この戯曲を手がけた三谷幸喜と西村とは名コンビであったが、やがて袂を分かつような…微妙な形に至っている。

 80年代に劇団 “東京サンシャインボーイズ” にて出会った両者はさまざまな作品で組んだ。1989年に「劇団再編成」を行なった際にも「残ったのが、西村雅彦、梶原善相島一之小林隆といった人たちです」という(『仕事、三谷幸喜の』〈角川文庫〉)。その翌1990年に舞台『12人の優しい日本人』がヒットし、映画化も決まった。

 

『12人…』で初めて「東京サンシャインボーイズ」が注目されて劇評もいっぱい載ったんです。すぐに映画化されることになって、本当は劇団員がそのまま演じられたらよかったんだけど、劇団からは相島一之梶原善だけが出演したので、西村がすごく悔しがった。「なんで俺は出られないんだ!」と。気持ちはわかる。

 そこで僕は、映画の撮影で相島と梶原が劇団の芝居に出られなくなったこともあって、『ショウ・マスト・ゴー・オン』という芝居で、西村を初めて主役にして上演したんです」(『三谷幸喜 創作を語る』〈講談社〉)

 映画出演が叶わなかったという事情ゆえに制作された西村主演『ショウ・マスト・ゴー・オン』(1991)も好評を博し、三谷自身も「めぐり合わせとは不思議なもので、この作品が西村の代表作になりました」と回想する(『仕事、三谷幸喜の』)。

 

評判がよくて、終わったらスタンディング・オベーションが鳴りやまなかった。楽屋でシャワーを浴び始めてる役者もいたのに、鳴りやまないから、またみんな出ていった。西村はこれで注目されるようになった。いい俳優だし、見栄えがいいから」(『三谷幸喜 創作を語る』)

 三谷は西村のエッセイ『僕のこと、好きですか』(小学館文庫)の解説では西村とは仕事以外の関わりはないと強調するけれども、10年以上のつき合いだけにある程度は知っているらしく「あいつの本性」は女性関係が派手?で「僕がどれだけ彼の尻ぬぐいをしてきたか(笑)」(「週刊文春」1999年2月11日号)ともいう。笑わせるためのリップサービスという可能性を差し引いても、長年の仕事仲間なのだから人間性を多少は知悉しているのが自然であろう。また「西村の初主演映画は僕が撮るという約束が二人の間で交わされていた」らしい(「キネマ旬報」1997年11月下旬号)。

 三谷脚本の連続ドラマ『振り返れば奴がいる』(1993)や『警部補・古畑任三郎』(1994)、『王様のレストラン』(1995)でも西村は好演。両者の知名度は順当に上昇する。小説版『古畑任三郎』(扶桑社文庫)のあとがきでは三谷は西村を気づかったような書き方をしていて、いかに重要な存在であったかをしのばせる。

 ややすきま風が生じたのがシリーズ第2作『古畑任三郎』(1996)とスピンオフ的な西村主演の『巡査 今泉慎太郎』(1996)だった。三谷は『古畑』第2作での西村について「もう別人のようにはしゃいでます」と辛口に評し、『巡査』に関しては「西村はこれで認知されて、以後、図に乗った感じがある」と断じる(『仕事、三谷幸喜の』)。ただし冒頭で触れた『笑の大学』は同年の作品で、西村は見事に快演し、三谷との相性のよさには改めて唸らされた。

 三谷が映画初監督を務めて話題になった『ラヂオの時間』(1997)では、西村は準主役で仇役的な面もあるプロデューサーを演じている。三谷は、西村はダントツに上手い俳優なのに当時「怪優」扱いされていて疑問を感じたとコメントしており(「朝日新聞夕刊」1997年11月8日)西村本人に対してだけでなく世間の認識にも不満を募らせていたのが伺える。『ラヂオ』では三谷と西村との間にシビアなやり取りがあったとおぼしく、西村は撮影で苦闘したと述べている(「キネマ旬報」1997年10月下旬号)。

 完成した『ラヂオの時間』は好評で迎えられ、西村は第71回キネマ旬報賞助演男優賞などを受賞。翌1998年にテレビ『今夜、宇宙の片隅で』でも脚本 × 主演をそれぞれ務めたふたりのコンビネーションは鉄壁かと思われた。(つづく