【少年のころと青年時代 (2)】
三沢「渋谷に寺山(寺山修司)さんの天井桟敷があって、そこで森田(森田芳光)の自主映画をやってたんですね。森田ってのを見たほうがいいよって言われて。だけど本人に会ったのは、卒業して3年くらい経ってから」
伊藤「三沢さんは監督の追っかけみたいな」
三沢「追っかけじゃないですよ。1回見ただけです!(一同笑) 毎日映写機回してる人が森田だって言われて、あんまり話しかけにくかったんですが、その日だけ別の人だったと後で判ったんです。その人が森田だと思い込んで3年後に会ったら全然別の人で、前の人よりは印象がずっとよかったんで」
高田「『の・ようなもの』(1981)のときの森田は30で、それまでまだ間があるよね」
三沢「私もここらへんに住んでて、本人はギンレイホールに勤めてるころです」
高田「チケット切ってたんですよね。片桐はいりと同じ(一同笑)」
三沢「私は御茶ノ水でピアノ弾いてて」
高田「ピアノも弾けば布団もひく(一同笑)」
三沢「ギンレイホールへ夜行くと、森田しかいなくて「見て行けば」って言われるけど最後の10分くらいで。普通の人よりラストシーンをたくさん見ました。
実家に遊びに行ったらジャズのレコードが1000枚くらいあって、本も壁いっぱい。入り浸りました。私のジャズの友だちも来ちゃって、ジャズ喫茶でお金払うより森田くんち行けばいいと。森田の友だちも出入り自由で、玄関を通らなくても入って来られるんですね。結婚してからも仕事終わって帰ると、必ず何人かいてお帰りなさいと言われる生活。麻雀してたり」
高田「麻雀とかギャンブル好きだったよね」
三沢「日曜日になると並木橋で馬券買った人もうちに来て、みんなで競馬を見る」
高田「ぼくはお酒好きだったけど、彼は全然飲めなかった。江古田から渋谷まで帰るのにひと駅ごとに吐いてた」
三沢「森田のいとこは三々九度で倒れた。親戚一同で飲めないんですね」
【『の・ようなもの』の想い出 (1)】
伊藤「監督が落語家役をさがしてたけど、当時みんな歳とってるんだよね。ぼくは全日本落語名人決定戦の3回目で敢闘賞で」
三沢「森田がテレビで見てて、衝撃的な下手さだったらしいです(一同笑)。三平(林家三平)師匠が驚くくらい」
伊藤「スカウトですよ。池袋西口の喫茶店だよね。お手紙いただいて」
三沢「森田は、手紙は女が書いたほうがいいってわけの判らないことを(一同笑)」
高田「男の字だったら来ないけど、女の字だったらのこのこ出てくるだろ」
伊藤「和子か、行ってみるかと(笑)。1対1で会って、何を言ってるのか判らなくておれに気があるのか」
三沢「大学4年だったんで、就職が決まってるかどうか訊いたら決まってると。それを聞いたんで、私は映画のことを言い出せなくなっちゃって。それで世間話でごまかしてたら伊藤さんは「何の用事なんですか」と。それでやっと映画に出てほしいと」
伊藤「この業界にそんなに興味なかった。落語は上手かったけど(一同笑)。結局は就職やめて、やることになったんだよね。監督はそのときおれに「きみを不幸にはしない」って言ったんだよね。そこまで言うなら監督に賭けてみようと思ったら、事務所開きで赤飯食べてるときに「この映画がダメだったらお前もおれも終わりだ」と(一同笑)。全然話が違う」
資金は森田監督が捻出した。
三沢「最初はお金を出してくれる会社があったので、スタッフもキャストも全部決めて、バカにされないように青山に高い家賃の事務所を借りて。伊藤さんとお赤飯で事務所開きまでやって。日本ヘラルドの配給も決まってました。その時点で、会社がお金出さなくなったんです」
伊藤「あれ急だったよね」
三沢「それで家の料亭を抵当に入れて」
ポスターは、いま見ても独特。
三沢「モダンなポスターですね。どうやってつくったかも覚えてない」
高田「このポスター、主役の秋吉久美子も伊藤くんも尾藤イサオもみんな同じサイズですよ」
三沢「マネージャーの方にテレビ局に呼ばれて、秋吉は主演なのにこの大きさは何だと。「他の人よりは1cm大きいんです」と(一同笑)。その方が「誰か定規を持ってきて!」って。測ったらほんとに1cm大きかったんで許されました」(つづく)