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「怪獣使いと少年」についての二、三の事柄・橋本洋二と東條昭平(2)

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ウルトラマンではチャランポランはできない。後に東映の戦隊ヒーローを監督しましたが、あっちの方はもっとコミックにしたり、崩していい世界なんですね。ウルトラマンは、やはり他のヒーローに比べれば一段も二段も上の存在ですね、僕にとって」(『怪獣使いと少年』〈洋泉社〉)  

 

 『帰ってきたウルトラマン』(1971)の「怪獣使いと少年」における虐殺シーンは、テレビ局側に咎められた。

 

あの場面は一度撮った後にリテイクしました。最初は民衆が竹槍で老人を刺し殺していた。もっと残忍だったんです。TBSの橋本洋二さんが、血を見せるのはナランと。これでは商品として受け取るわけにはいかないと言うのです。でもピストルだと一瞬でしょ。それだと民衆の憎しみは出ない。そこは残念でした」(同上)

 僕より上原上原正三さんが怒られた。彼はもうデビューして五年以上たっていましたから。「君がついていながら、なんだ」と。ですから、その後上原さんは『帰ってきた~』をしばらく干されたんです」(同上)

 

 発言を要約すると、

①そもそもの着想や穴などのヴィジュアル・イメージは東條昭平から提案された。

②おなじみのレギュラー陣の不在や托鉢僧の趣向は東條の判断によるもの。

③リテイク前のクライマックスはもっと残忍だった。

 「怪獣使いと少年」には、東條監督の意向が強く反映されていた。事実、上原の脚本を参照すると、完成作品とは大きく異なっている(『24年目の復讐 上原正三シナリオ傑作集』〈朝日ソノラマ〉)。 

 しかし橋本洋二プロデューサーの後年の発言は、やや意外なものであった。

 

東條監督の「怪獣使いと少年」は僕には思い出に残る作品で、試写の時のことも克明に覚えています。その日、局の人間は僕だけで、東條監督と熊ちゃん熊谷健プロデューサー)が来てたと思います。見終わってかなり怒った覚えがありますね。それは何故かというと、東條監督の顔が見えてこないからなんですよ。スタッフみんなで、東條監督に良いもの作らせようと思って一所懸命やってるのはわかりましたし、画のしつこさもよく出てたと思うんですけど、肝心の監督が見えてこない。つまり、監督自身が自分の目で見て、自分でイメージした主張というものがどうしても感じられないんです。そういうことを監督に質問したと思うんです。でもあの人は寡黙な人だし、熊ちゃんも何か言おうとしても言い出せないでいる風。それでかなり気まずい雰囲気になってしまったんですね」(『帰ってきたウルトラマン大全』〈双葉社〉) 

 監督の作家性がない、というのが橋本の見解なのだという。東條の個性があれほど全開しているのに…と筆者は納得しがたいものを感じたのだが「怪獣使い」を2、3度見直していると、何か既視感を覚えた。それは『ウルトラセブン』(1967)や『怪奇大作戦』(1968)などでの実相寺昭雄監督の作品であった。

 実相寺作品にはカメラの前に机や小物が大きく入り込んで人物が隅に映ったり、障子の穴から覗いたり、あるいは画の中央からずれた部分に人物が配置されたり、画面を傾けたりする特徴的な構図が頻出する。「怪獣使い」の窓や土管の中から覗き見るような映像は実相寺を想起させた。また実相寺は『怪奇大作戦』の第24話「京都買います」や映画『無常』(1971)などの劇中に謎めいた僧を登場させており、「怪獣使い」の幻想の中で隊長が托鉢僧になっているのもその影響のような気もした。隊長に普段と異なる扮装をさせるにしても、僧である必要は別段ない。

 橋本は『怪奇大作戦』も担当しており、殊に「京都買います」については「これが第1話だったらと思いました」(『テレビヒーローの創造』〈筑摩書房〉)というほど評価していた。実際に「京都買います」のような異色編が第1話ではまずかろうが、そのように実相寺を重用する橋本の眼に「怪獣使い」が実相寺作品のエピゴーネンと映じたとしても不思議はないかもしれない。ただし橋本は「怪獣使い」を非難しつつも熱意は買ったようで、上原と東條を番組から追放することを条件に社内の反対を押し切って、どうにか放送にこぎ着けたのだという。

 その後の東條昭平は1990年代まで主に特撮ドラマを撮りつづけ、筆者も幼いころに『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)や『五星戦隊ダイレンジャー』(1993)などに魅了されたが、東條自身の主張や実相寺の影響は、かつての作品ほど強くは感じられなくなった。東條は自身の作風の変化について「割り切りです」と語っている(『封印作品の憂鬱』〈洋泉社〉)。自らの意思を押し出すだけが作家性ではないと悟ったのか、よくも悪くも大人になったのか、彼のみのぞ知ることであろう。ただし後年の『超力戦隊オーレンジャー』(1995)の第1話「襲来!!1999」などのように俳優をずぶぬれにして肉体的に追いつめるような演出を見るにつけ、「怪獣使い」に刻印された烈しさを東條はずっと秘めていたようにも思われるのだ。