私の中の見えない炎

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実相寺昭雄の晩年をめぐる証言 2004 − 2006(1)

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 2006年、『ウルトラマン』(1966)などで知られる実相寺昭雄監督が逝去したときはショックだった。晩年に自ら率いるプロダクションの経営が危機に瀕した実相寺は、次々とオファーを受諾している。その矢継ぎ早な仕事ぶりを見ていて、80歳くらいまではハイペースに創作をつづけると思っていたのだった。関係者の証言を追ってみたい。

 まず実相寺と旧知の脚本家・白坂依志夫の回想を引く。

 

最後に会ったのは、三年ほど前で、

「白坂さん!」

と呼ぶ声に、振りむくと実相寺が笑って立っていた。

 成城学園の駅である。

 ひどくヤツれて、ガンじゃないのか、と思った。

 「やせたンじゃないの?」

 と言うと、

「ケッ、こんな暮らししてりゃ、やつれますよ。今度、ユックリ会ってね」

 来た電車にのって行った。

 ふと見ると、窓から手をふっていた」(『脚本家白坂依志夫の世界 書いた!跳んだ!遊んだ!』〈シナリオ作家協会〉) 

 2004年のことと思われるが、映画・テレビ・オペラなど多忙を極めた実相寺の晩年の痛ましいひとコマである。テレビ『怪奇大作戦』(1968)、映画『無常』(1970)や『曼荼羅』(1971)などで組んだ脚本家の石堂淑朗の証言も興味深い。

 

一月ほど前、胃癌の開腹手術で順天堂医院に入院、退院の報せは本人直筆の葉書で知らされていた。ある筋から水が溜まりはじめたと聞いて、ああ、長くはないなと観念はしていたのだが、思いがけず早かったのは残念である。癌は依然として猛威を振るっていて、遺伝的要素も大きいが実相寺の癌は後天的なものだったと思う。

 彼の映像感覚は特異なものだったから、映画を撮っていないときはCFの仕事で世界中走り回っていた。フランス帰りのときは直ぐに分かった。上等のコニャックが届いたのである。岸惠子さんにもらったんだと云ったりしていた。中年に至るまで彼は下戸だった。食うこと専門だった。あるとき赤坂の焼肉店に入ると彼が食事中だった。丼に山盛りのご飯をカルビかなんかでパクパク食っていた。糖尿が出ないということはこういうことなんだと羨望に堪えなかった。それがある時期からコニャックが届かなくなった。聞くと、食うのは止めて呑む方に回った、「酒がこんなに旨いとはね」それで岸さんのコニャックが来なくなったのだ。私は「中年になって狂うと碌な事が無いのは女も酒も同じだ、気をつけろよ」と云ったが効き目は無かったようだ。生返事ばかりで、実際には彼はストレート専門の大酒家に変身していたのだ。

 癌手術で入院する直前にもらった電話で、丼ご飯と岸惠子さんのコニャックの事をいうと、「失敗した、胃腸に過信があったね」と嘆いていた」(石堂淑朗『偏屈老人の銀幕茫々』〈筑摩書房〉) 

偏屈老人の銀幕茫々

偏屈老人の銀幕茫々

  • 作者:石堂 淑朗
  • 発売日: 2008/03/01
  • メディア: 単行本

 亡くなる前年の大作映画『姑獲鳥の夏』(2005)のころには、おそらく残り時間を見据えていたと思われる。ADKの内野惣次郎は述べる。

 

姑獲鳥の夏』の試写のときに監督の横に座らされて、小さな声だったんですが、いきなり「〇千万用意してくれ」と。「映画でも作るんですか」と聞き返すと違うんだと。俺はいろんな分野のコレクションをもっているので自分の常設の博物館みたいなものを作って、コレクションを残したいと言うんですね。それには円谷プロさんにも協力してもらわないといけないし、そのへんの話をしてなんとか実現できないだろうかというのが1点。

 それともうひとつは、苦しくてあまり話せなかったんだけど、ふりしぼるように、高山良策さんは『怪獣のあけぼの』(引用者註:怪獣の造型師の高山良策を描いたドキュメンタリー)として作品もいいものができたけどもうひとつ。成田亨さん(引用者註:怪獣やウルトラマンのデザインを手がけた)のドキュメントを作って、初めてウルトラ創世記原文ママのことがきちんと残せるんだと。そこを何とか考えて欲しいと言われたんです。このふたつは、コダイの方々はじめ、ここにいるみんなで実現しないといけないと思っています」(「フィギュア王」No.118)

 

 自らが関わった『ウルトラマン』の怪獣デザインや造型に関して実相寺は不満を縷々述べていたが、晩年になると自ら絵筆を執って水彩画で怪獣を描いていた。高山や成田に申しわけないという思いが生まれていたのかもしれない。(つづく 

ウルトラ怪獣幻画館 (ちくま文庫)

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