真嗣「50過ぎると、昔の自分のを見てた人から「またああいうのやってください」って言われて。ガメラとか。表向きは嬉しいって言うけど、やるわけねえだろ! あ、これだったんだなっていまにして思う。
『ウルトラマン』(1966)や『怪奇大作戦』(1967)が好きって言われても1回やったから、いまそれやるか。あのとき40代終わりでいまの自分より下で、好きですって感情を出せば出すほどスッと離れていく。きみが生まれたころにやってるから、周回遅れで「最高です」って言われても、撮った側にしてみりゃどうでもいい。いまにしてみれば判る」
尚文「『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)も22年前で、そのとき生まれた人も大学出るくらいですね」
樋口真嗣氏は『帝都物語』(1988)以前に『ゴジラ』(1984)の特殊造形助手を務めていた。
真嗣「『帝都物語』は『ゴジラ』の元締めの人がいて、その人が『帝都』の特撮進行で「絵コンテの人をさがしてるよ」って。それでオーディション的に描いて、こんな感じでいかがでしょうかと。監督は特にないです、もっと描いてって。もっと苛烈なダメ出しがあるかと思ったら。実相寺さんはコンテとかいらないわけですよね。むしろ一瀬さん(一瀬隆重プロデューサー)がほしがってた。一瀬さんはあのころ26歳。神をも恐れぬ…」
尚文「一瀬さんは武満徹を叱ったらしい」
真嗣「一瀬さんはコントロールしたい、アメリカ的な体制でやりたいと。実相寺さんにしてみりゃ、おれはプロデューサーの手先。絵コンテなんて、そんなの知ったこっちゃない。難しいポジションだったんだけど。
やっぱり実相寺さんと仕事ができると興奮して「見てください!」って。いちばん実相寺さんが嫌いなパターン。正面から攻めてって、何も知らなかった。みんな優しく受けとめてくれるけど、実相寺さん以外は。実相寺さんは全く黙殺」
真嗣「その後コダイに出入りして。「コダイ報」って新聞出してて、実相寺さんも文章書いて、そのカットを描けと。ちな坊のことを書いた文章があって、何ですかって訊いたらアライグマのぬいぐるみだって。正月にお宅へ行くと3匹いて、がま口ぶらさげててお年玉入れなきゃいけない。何やってんのって。愉しい想い出ですね(笑)。
コダイが受けた展示映像や池谷(池谷仙克)さんのCMのコンテとかやらせていただいて。実相寺さんの子ども向けの本(『ウルトラマン誕生』〈ちくま文庫〉)の挿絵を描けとか。テレスドンの回のコンテを再現しろと。「ないよそんなもん、あったように描いてくれ」と。それで捏造して。でもこのころの実相寺さんはあまり絵を描いてる印象ないけど、ある時期にものすごく描き出して、描けたんじゃん! それで(『ウルトラマン』の)絵コンテを当時描いてたみたいですけど、ないですもん。字コンテだけ。描くスイッチがあるのかな。描かなきゃいけないってことじゃなくて、どう切り取るのがいいかなって。コンテ主義でなく、こんだけ撮るよって伝えるのが優先なのかな」
真嗣「12万だった給料が9万になって、ガイナックス辞めて。社長だった岡田斗司夫が「残念だね。きょうボーナス出る人だったよ」って(一同笑)。当時『オネアミスの翼』(1987)や『トップをねらえ!』(1988)の準備してて、絵を描きためてて。ガイナックスにいると、周りの人うまくて引っ張られる。お芝居でもうまい人と共演すると引っ張られる。あれに近い。うまい人と机並べて仕事してると引っ張られる。いまいないから、落ちてるけど」
『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990)では絵コンテとのほかに、怪獣・薙羅(ナギラ)の光線にも携わった。
真嗣「『星の伝説』は、特撮の絵コンテを現場に入って描いたり。そんなに量がなかったっていうのと、あのとき香港で別の映画やってて。日本で公開されてないやつ。1回中断して、帰国して。それで入って、行ったり来たりしながらちょこっと。スタートの時点からではないです。合成で薙羅が吐く光線はどうするか。デン・フィルムにいたアニメーターの川端孝さんとやってて、予備動作とか。吐く前に角がこう…なって、ドーンと吐く。ガメラのときもプラズマ火球は、川端さんとやりました」
実相寺のことを感慨深げに回顧する真嗣氏の表情と語り口は、実に味わいがあった。