――巨大怪獣と少女だとそんなじゃないんだけど、怪獣が等身大に近い幼体のときは、エロティシズムそのものを感じますね。
金子 その辺を隠さないで、追究しようという。最初は綾奈が繭に閉じ込められるシーンで「裸の綾奈が」って脚本に書いたりした。それで20分の1かなんかの繭のモデル作ってもらったんだけど、その中に裸の少女が入ってる。胸は押さえてるけど。それはまさに85・55・85ぐらいの少女で、僕の中の変態性がものすごく…(笑)。でも、さすがに、これはマズイと、僕の6歳の子供も見るんで、ちょっと考えましたけど。
――そういう意味では、金子監督のテイストが濃厚だったと思いましたね。5人いるヒロインの可愛さとか。
金子 それは心がけてますからね。やっぱり上手くて可愛いコがやってくれれば、一番いいんだけど。ある程度下手でも、可愛いコを選ぶという性質もあるんで。
――実は怪獣映画だな、とも思ったんですが。それは、意図的に感情移入を排された?
金子 いや、感情移入できない? 全然? ガメラに対して?
――ガメラに踏み潰される人は出るし、子供が見たらちょっと困るんじゃないかと、素直に拍手できないんじゃないか、と思ったんです。ガメラの被害者を描くというのは、どこから思いつかれたんですか?
金子 それは…昔から怪獣少年たちが議論すると、いくら正義の怪獣と言ったって、街で暴れたら迷惑だよな、とか。
――お前もビル、壊してるじゃねぇか、みたいな(笑)。
金子 そうそう。そういう論争とか。なんで怪獣が日本にばっかり来るんだよ、とかさ。そういう論争に決着をつけよう、というところもあったんで。
――その謎が解かれたときはヒザをたたきましたね。一方、本当に怪獣が出てきたらどんなふうになるだろうっていうのを、徹底的にローアングルで見せていただけたのも、すごく嬉しかったです。でも…次の瞬間に観客までが、踏み潰される個人に引き戻されるわけですよ。
金子 一本の映画じゃないんだけど、『ゴジラ』が昭和29年にスタートして、それ以降、そのとき恐怖の対象だったのが昭和40年代に入ってくると…。
――消費されたかなって?
金子 正義のアイドル化されていくじゃないですか。そういうトータルな怪獣に対する感じ方が封じ込められてるっていうふうに考えていただいたほうがいいんです。恐怖もあればアイドルとしての…。
――凛々しい姿を。
金子 そうそう。ヒーローとしても見える。だから、それぞれ個々の描写をそれだけ描写していくとそれだけで一つの映画になるんだけど。怪獣っていうのはそういう矛盾もひっくるめて着ぐるみとして存在するっていうのがあるじゃない。つまり、いくらCGIで厳密に作っていっても、ある瞬間、着ぐるみの怪獣がパッとでてくるというね、幼児性っていうのがあるわけですよ。
――着ぐるみは度量が大きい、と。
金子 そこが面白いんだと思う。すごく本格的になっても、ひとつの幼児性を最後まで失わないっていうのか。だから、いくら人を踏み潰しても最後には共感できるようになるって計算でやったんです。それは、だから本当に子供が、一体、誰に感情移入したらいいのって言ったら、それにどう言い返していいかわからない。大人がそう言ってくれれば、その言葉の意味はわかるんですけどね。
――昨年のUSA版『ゴジラ』はご覧になっていかがでした?
金子 やっぱりね、良くできてると思いましたよ。でもキャラクターが不足してたかな。
――追う側の?
金子 いや、ゴジラ自体の。あの映画はやっぱりゴジラの足だよね、すごく印象に残ってるのは。ゴジラの表情より足、大きいことに執着している。怪獣映画の伝統のない国が作った怪獣映画っていうのはよくわかりましたけどね。
――怪獣映画って、本当に日本でだけ、これほど作られてますね。
金子 そう、日本でだけこんなに発展しているのは、やっぱり空襲の記憶や原爆の記憶がまず『ゴジラ』につなげられて、それで、その後、高度成長で狭い国土の中にいっぱいビルが乱立して。それを壊す快感というか、その辺を進化発展して、それを受けていますよ。
――日本の文化そのものを。
金子 日本の風土っていうもの(金子監督は『ガメラ3』撮影と並行して、歌謡曲に関する本を執筆していたという。「『失われた歌謡曲』という本なんですけど。30年間ぐらいの日本の歌謡曲への思いを綴りました。怪獣と歌謡曲ってドメスティックな感覚に引きずられる、僕の中では矛盾しない存在。懐かしくもあり、何でこんな歌覚えてなきゃいけないんだよ、みたいな恨みがましさもあり」)に根ざした文化として怪獣はある。ドメスティックな世界っていうのが怪獣映画の場合、重要なんだと思うんです。今、やはり、『ガメラ』は平成の時代になって平穏な国だと思っていたら、いろんなことが起きてきて、日本ってどうなってしまうんだろう、っていう気分が託されてる。(つづく)
以上、「週刊SPA!」1999年3月17日号より引用。