【回想の助監督時代 手塚昌明編 (2)】
小松左京が原作・脚本・総監督を務めた『さよならジュピター』(1984)は、『スターウォーズ』(1977)に始まるSFブームのさなかに、和製SFの決定版を企図した意欲作であったが、出来あがりはかなりつらいものがあった。小松総監督の下、監督は新人の橋本幸治が担当。元来SFや特撮好きの手塚監督にとっては嬉しい仕事だったようである。
手塚「『さよならジュピター』には、一心不乱に取り組みましたよ。毎日徹夜で小道具をつくってたら、三好(三好邦夫)さんが怒っちゃって(笑)。
あんなにこけるとは思わなかった。予告編で盛り上がったのが、その後しょぼしょぼと」
手塚「この映画では、小松さんと会えて(主題歌の)荒井由実さんとすれ違ったんです。スタッフルームに髪の長いお姉ちゃんがいるから誰だと思ったら。LP全部持ってますからね(笑)」
小松左京『SF魂』(新潮新書)でもご本人が回想しているが、小松総監督は撮影現場にずっといたそうで、本作がデビューの橋本監督はさぞやりにくかっただろう。
手塚「小松さんがまた面白いんだ。予算足りないってなったら、翌週には5000万持ってくるんだから。当時小松さんの文庫が売れてましたからね。“手塚くん、結婚したらすぐ新婚旅行へ行くんだ。一生言われるぞ”って言ってました(笑)。
この後、84ゴジラ(『ゴジラ』〈1984〉)をやりたいって言ったんだけど、市川崑さんが東宝に働きかけたせいで、ビルマへ連れて行かれて(笑)」(『ビルマの竪琴』〈1986〉)
長年フリーの助監督として各社の作品に参加していた手塚監督は、1994年に東宝映画に入社。
手塚「助監督として、ゴジラやって市川崑やって、生活はよかったですよ。市川組にはついてたけど、ぼくはずっとフリーだったんですが、あるとき制作部長に呼ばれて契約になって、半年後に社員になりました。高倉健さんが“よかったね。飯でもおごるよ”と言ってくださって」
市川崑監督の『八つ墓村』(1996)では、その前年にテレビで片岡鶴太郎が主演したバージョンとロケ地がかぶってしまった。
手塚「『八つ墓村』は、原作がもともと面白くないんですよ。だから映画にしてもつまらない」
このときは、会社側が主演に豊川悦司を起用し、市川監督は「誰じゃそれは」と言っていたという。
手塚「だから演技指導なんかしないですよ。他の人にはバンバン言うのに、トヨエツには何も言わない(笑)」
市川監督の遺作は、1976年に撮ったヒット作を自らリメイクした『犬神家の一族』(2006)。この時点で、市川監督は90歳。すでに監督デビューしていた手塚監督は、師匠の現場にて監督補を務めた。
手塚「2006年版の『犬神家』、あれはねえ(一同笑)。一般に監督補っていうのは、助監督と違って、監督に体力がないときに補佐を頼むケースです。監督は、気分は若いつもりなんだけど、歩くと(自分の)足下しか見られない状態で、だから車いすに乗って。セットへ来ても、腰が痛いとか言って、“頼むな”って帰っちゃう(日があった)。松嶋菜々子さんがしみじみ、“前の日に言ってくれればねえ”って(笑)。
現場のモニターで昔の『犬神家』を見て、“これだ!”とか言ってるんだけど、出来上がりは(昔より)ゆっくりになってる。シーンも全部ゆっくり。“いまのは台詞が速いぞ”ってゆっくりにさせて、才気走った昔の『犬神家』みたいにならなかったですね。90歳の人用の『犬神家』(一同笑)」
正直『誘拐』の話より、助監督時代の想い出をずっと聞いていたいくらいだったが…。ここには書けないような話も飛び出し、なかなかに濃厚なトークでとても愉しかった。