私の中の見えない炎

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田中優子 講演会 “家から連へ” レポート (3)

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【基調講演 “家から連へ” (3)】

 自分の子どもでなくてもいいはずで、少子化で日本人が減ると言われていますが、どこかの国の子どもを育ててもいいわけです。それが連という可能性です。新しい家族をつくっていくということが、これからの社会を豊かにしていきます。少子高齢化の日本だからこそ、新しい家族が出てきて、ふたつとして同じ家族がいないってぐらいの。そうやって助け合っていくということを思っています。

 

【パネルトーク

 商家は他人がいっぱいいます。お手伝いさんとか。そこで子育てをしていると、子どもたちを誰が面倒を見ているかというと、お母さんだけでなく周りのいろんな人ですね。農家も当然そうで、長屋はもっとそうです。私は祖母と母と父がいて、みんなが留守のときにお腹が空くと、隣りに行く。家族でない関係の中で子育てができた環境がなくなって、子育てが難しくなっていますね。

 家の構造を考えると、ドアじゃなくて引き戸でした。途中で止まる。夏だとクーラーがないから全開で、長屋だと人が入ってくる。そこに腰かける。床がちょうど椅子の高さだったんです。いまは床が低くなって家に上がり込むか玄関で話すしかないですが、江戸時代はふっとすわって話すことができたんですね。子どもとも顔なじみですね。

 ちょっと腰かけるという。人間関係で中途半端な関わりというのはすごく大事です。いまは密接になるか疎遠になるかしかない。

 個人情報を守るっていう圧力がとても強くて、そうなのかもしれないけど、個人って何なのか。守らなくちゃいけない私って何だろうという疑問を持つんですね。ひとりの個人の中にたくさんの私がいる。そしていろんな人といろんな関わりを持っているという柔軟な個人像を持ったほうがいいと。持ったときに、排斥主義的なことにはならない。ヘイトスピーチでも、その外国人の友だちがいたらこうはならないだろう。何らかの関わりを持つことで理解や共感が生まれる。グローバル化で大事なのは友だちつくることでしょって、いつも言っています。

 いま(SNSの)アカウントを複数持っている場合、この全部がひとりこの人に属していると周りの人は知らないですね。江戸時代では、ひとりがたくさんの名前を持っていることをみな知っている。匿名じゃない。江戸時代の研究をしている者からすると、いまの時代を研究するのは大変ですね。この人とこの人とが同じ人だと判らない(笑)。当時はお互い知ってて許している。ただ女性のほうが、いろんな自分を持ちやすいという柔軟性があるかもしれないですね。

 12月に法政大学でシンポジウムを行うんですが、自閉症の方々が社会的な役割の決まっている関係ではうまくいかないのに、アバターを使うといきいきしていろんな能力を発揮するという研究があるんですね。そういうことをアメリカで追求している方がいてシンポジウムをやるんですが、私たちはひとつの役割に閉じ込められていていいんだろうか。いまの役割だけでない別の能力を発揮するのが、社会のためにもなるんじゃないかということですね。

 職住が離れてしまったということが、江戸時代と近代を分ける区切り目だったんですね。江戸時代の女性の仕事のひとつが機織りで、家でやっていたんですが、あるときから工場に集約される。みんな集めて効率的に12時間くらい働くわけですが、そういう時代でなくなったいまでも同じ働き方をしている。農業や林業がなくなってきたのは、ああいう仕事は家と一体化していないとできないですから、どうしたって家族いっしょに働く。それもなくなってきている。もし新しい職住近接・一致の働き方が生み出せたら、家族は変わりますよね。家族は家族だけでなく、社会問題といっしょに考えないといけないですね。

 子どもを産まないひとつの理由は教育費だそうで、税金の中で教育費に充てる率は、日本はとても低い。でも例えば家族が多くていろんな人が働いていれば、教育費を少しずつ負担できるかもしれない。同性同士で、恋愛関係がなくてもいいかもしれない。家族同士でも気が合わない人っていますけど、他人同士ならなおさら気が合わない。ただ生きていくために必要な企業体、コミュニティだと考えれば、自分と同じ考えを持ってなくてもいい。そういう連携もできますよね。

江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫)

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