私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

富野由悠季監督 トークショー “戦後アニメーションは何を描いてきたか” レポート(2)

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 ぼくがいま『ガンダム Gのレコンギスタ』(2014)を映画版でつくり直しているのは、テレビ版で欠落があって埋めていったら作品になるかなと思ったので作業をしてます。いま、映画5部作でつくれるかもしれないなと。かつてはテレビのダイジェスト版が映画になっていたんですよ。でも『Gレコ』はダイジェスト版にできない。構造が根本的に違うから。

 5本目に投入しなきゃいけない新しいシーンについて、制作のほうから美術打ち合わせをしてくださいっていうオファーが2か月前に来たので、5部作つくらせてくれるかなとなった。『Gレコ』はまさにディズニーとGoogleに対して日本から発信できるものを考えたんです。ガンダムってのは、営業でつけた冠の単語でしかない。ガンダムに引っ張られてる奴には判らない。現に『Gレコ』しか知らないティーンエイジャーには見てもらってるってことが判ってきて、ぼくにとっては『機動戦士ガンダム』(1979)と同じ反応です。10年経ったら伝わるだろう。世間に向けて作品を発表できる立場の人で言論を持っているなら、戦記物のコピーみたいなのは止めろってことを、ガンダムを使ってやってみせています。

 癒しも卑しさも、ぼくの中では同列かもしれない。ぼくは階級制も身分制も基本的に認める人間です。高貴であればあるほど義務がある。卑しい奴に志が持てるとは思えないからです。階級制を上手に機能させられるならあっていいと思うんだけど、人類史の階級制、カースト制もアラブの身分制も機能できていないから認められないという言い方にもなってきます。われわれの世代、われわれのひとつ前の戦争に敗北した世代のインテリジェンスが戦後機能しなくて、戦後のインテリジェンスやポリティックスを育てられなかった。インテリジェンスを身につけた世の中っていうのを、われわれの世代がつくれなかった。このインテリジェンスの問題を、インテリゲンチャが考えてこなかった。それで現在の野党の崩壊が起こってる。本来的な意味でのインテリジェンス、知的にものを考えるというのを忘れてるんじゃないのかな。インテリジェンスを育てて、安倍政権やトランプ政権みたいなのをつくらないように再構築していかなくちゃいけないと思いたい。年寄りの妄言ですが。

 ぼくはロボット物しかつくれないような、劣等階級にいた人間です。公共の媒体を使って発言するときに、知的でありたいっていうあこがれがあった。戦後のSFっていうのがつまらないものだったし、もうちょっと上等なものをつくりたい。上等な部分って知的なものです。

 貧すれば鈍すって格言の通り、貧したままで知を行使すると赤軍派になるかもしれない。革命精神を持った人間は、自分たちが卑しいと思ってない。マルクス・レーニン主義を喋れる人間が何でこうなのか。ソビエトがなくなったから言えますが、かぶれた結果が何だったのか。党の綱領に従うというのが知的な行為なのか?と言ったら、しょっぴかれて銃殺刑になったりする。知的行為とか知的に考えるということを上手に身につける、そういう視点を持つというのがガンダムや『伝説巨神イデオン』(1980)以後のニュータイプ論です。 

 戦後民主主義が偽善だというような言い方は、ぼく絶対に許せない。憲法9条が押しつけだとか、ああいう憲法はあっちゃならないという言い方も許せない。戦争体験を決定的にした幣原(幣原喜重郎)と、フィリピンで日本軍にやられて報復戦をかけたマッカーサー。あのふたりが平和憲法をつくろうとした皮膚感覚、お前ら想像しなさすぎる。勝ち軍の職業軍人マッカーサーが、軍のない憲法を是認した。それはとんでもない行為です。実戦体験をした連中がおれたちは無能だった、そこであの憲法が出てきた。絶対あれは認めてほしいの。あんなバカな憲法はないってことも瞬時にして言える。国家は誰が守るかっていうときに、自分で守るしかない。その論点に立ったとき、憲法9条は全面改訂しなきゃいけない。部分改訂では軍隊は持てません。そこには右とか左とか駆け引き論はない。どうしてこういう言葉遣いが流通しないの。こういう言葉遣いを持ってほしいというのが、きょういちばん言いたかったこと…じゃないんですけどごめんなさい(一同笑)。(つづく