最近は『怪物くん』(小学館)のテレビ化・映画化が話題の漫画家・藤子不二雄A氏は、漫画界の最長老(のひとり)の巨匠。いまも連載を3本抱えるという現役ぶりで、この3月に最新刊『愛…しりそめし頃に…』第11集(小学館)が発売された。3月30日、その刊行を記念して上野でトークショーが開かれた。
上野駅にあるブックエキスプレスエキュート上野店の「特設会場」という触れ込みだったので、どんな場所なのかなと思っていたら、書店の隣にある空き部屋だった。筆者を含めていかにもマニアックな風貌の人たちがガラス張りの室内に集まり始め、外を歩く通行人からよく見えるのが恥ずかしい気もしたが、やがてスタッフの人がカーテンを閉めてくれてほっとした。しかし、今度は密室となった会場が「ブラックミサ」(故藤子・F・不二雄氏の表現)の様相を呈し始める。
強風のためやや遅れて、藤子不二雄A先生登場(以下の発言は、メモ頼りなので、実際の発言と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。トークの相手役は、小学館の人が務める。
藤子A「風で電車が止まってて、会場にもし誰もいなかったらどうしようと思ってたんだけど(一同笑)。こんなにたくさんの人が来てくれて、どうもありがとうございます(拍手)」
A先生は、画業60周年ということで、昨年から今年にかけて記念出版やイベントが相次いでいる。このトーク&サイン会も昨年から企画されていたが、東日本大震災の影響などでずれ込み、結局『愛、しりそめし頃に…』第11集の発売というタイミングに合わせて開催することになったという。
『愛…しりそめし頃に…』はA先生の自伝的な『まんが道』(中公文庫)の続編的な作品で、現在も継続中。『まんが道』は1970年から1980年代後半まで連載され、A先生の小学生時代から中学・高校やサラリーマンを経て上京、トキワ荘で創作に励むまでが描かれる。つづく『愛…しり』は既にトキワ荘にいる時点からスタートしている。
藤子A「『まんが道』のスタートから40年ですよ。何十年トキワ荘のことを描いてるんです?と言われるんですが(一同笑)。ある意味でぼくのライフワークですね。トキワ荘を出たら終わりのつもりです。出るときにぼくらの青春は終わるわけで、そこまでぼくの命が保つかどうか」
司会「同じことをもう10年くらい前から言われてますが…(一同笑)」
【デビューの頃】
A先生と藤子・F先生のデビュー作は、1951年12月から連載された『天使の玉ちゃん』。当時、毎日小学生新聞で手塚治虫『マアチャンの日記帳』を愛読していたふたりは『マアチャン』の終了後に自作の4コマ漫画『玉ちゃん』を投稿したのだった。
藤子A「手塚先生の漫画が終わって、勝手に次はぼくらだと思って送ったんです。4コマを8枚かな? (ペンネームでなく)本名で描いて送った。何の反応もなかったんだけど、ある日稿料が三千円送られてきてね。当時の三千円はえらいお金ですよ。もう毎日小学生新聞をとるのやめてたんだけど(一同笑)慌てて買いに行ったら新連載って載ってた。その後新しいのを送ったんだけどまた何の連絡もなく没で(一同笑)。それから60年です」
【上野の想い出】
藤子A「(故郷の)高岡から来ると必ず上野駅。昭和29年に初めて来ました。もう高校卒業してたんだけど、まだ学生服を着てた。上野公園の西郷さんの銅像の前で怪しいおじさんに写真撮ってやるよって言われて、いまなら信用しないんだけど当時は純真だったから(一同笑)。カメラを渡したら、それを構えたおじさんがするするする~と後ろへ下がっていったと思ったら、走って逃げ出した(一同笑)。追っかけていって、屈強な人がつかまえてくれたんだけど、あっ荷物を置いたままだったと慌てて戻ったら荷物は大丈夫だったというのが強烈な想い出ですね」
『まんが道』だと大都会で夢破れた敗残の老人を見た!…というようなシリアスな調子で描かれていたが、直接にお聞きすると愉快な漫談のようであった。
藤子A「上野動物園で坂本(坂本三郎)氏に会ったことも。ぼくらと新漫画党っていうグループを作ったんだけど、途中で漫画を止めてね。動物園でスケッチしてるところで再会した。彼はストイックだったからね、ストイックすぎると新漫画党に入れない。ぼくもストイックなんだけど周りに合わせるのがうまいのよ(一同笑)。その後彼はアニメの世界へ行って、いまは消息を聞かないんだけど」