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山田太一脚本『シャツの店』最終話をめぐる議論

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 八千草薫の追悼として『シャツの店』(1986)の最終話が再放送された(「あの日 あのとき あの番組」)。仕事ひと筋で時代遅れのシャツ職人が妻や息子の反乱に遭ってとまどうさまを笑いとペーソスを交えて描いた傑作で、今回の再放送ではネット上などで改めて反響を呼んでいる。

 この作品はリアルタイムでも好評を博していたようで、調べ物をした折りに当時の記事で触れているものを見つけたので以下に引用する。

 まず「朝日新聞」のテレビ欄のコラム「波」が『シャツの店』を取り上げている。

 

作者の山田太一が描こうとしたのは、いまや、家庭の中であまり評価されなくなった「男の仕事」のありようだろう。転勤が、一家の行動をともなわない単身赴任を意味するようになったように、「男の仕事」はもはや家族たちの尊敬の対象ではなくなった。男は内外ともに、仕事に誇りを持ちにくい状況に置かれている。

 山田は、それをあえてサラリーマンではなく、シャツの職人に置き換えて、視聴者の実生活に密着しないようにした。虚構の形をとることで現実の断面をきわ立たせようとする山田流の計算である。

 「シャツの店」はだから、まさに「男のドラマ」といえるだろう。女のドラマ主流の中で、しかも妻、息子、その恋人と父、妻を慕う中年男、弟子の職人と男を囲む人々の立場も巧みに描かれていた。

 妻や息子やその恋人の主張は男にとって聞くに耐えないが、彼らの言葉に間違いはない。ある視点から見下ろさずに、その人物の視点の高さに合わせているところに山田の巧みさ、冷静さがある。

 ただ、最終回で妻から「好きだといってほしい」といわれて男がそれを口にする。つまり女のドラマに戻ってしまったのは、山田の優しさ、あるいは今日のテレビドラマの宿命なのか。」(「朝日新聞」1986年3月11日)

 

 (拓)という筆者によるこのコラムに対して、浦和市の30歳の主婦からミニコミ誌に反論が寄せられた。

 

二月中旬に終わったNHK「シャツの店」は好きなドラマだったから、三月十一日付朝日新聞「波」欄の拓氏の批評が気になった。

 拓氏によるとホームドラマには「男のドラマ」と「女のドラマ」があり「シャツの店」の前半は「男のドラマ」であるが、最後に妻から「好きだと言って欲しい」と言われて男がそれを口にすることで惜しいかな(?)「女のドラマ」に戻ってしまった。それは山田太一のやさしさか、今日のテレビドラマの宿命かと詠嘆しているのである。

 私は山田太一が家族や男と女のかかわりを描く時、「男のドラマ」「女のドラマ」の区分けは毛頭しないのではないかと思う。男、女という既成のよろいを脱いだ人間と人間のドラマを描くことで、男女を問わず多くの共感を呼ぶ作品を作り出していると思うし、そのようなホンネで織りなす人間のドラマを描こうとすれば、作品の題材は、おのずから日常の私たちの生活全てであり、無限大なのである。

 「シャツの店」で妻がただ「好きだと言って欲しい」と夫に要求するのが「女のドラマ」になってしまうという見方は、あまりに安易であり、よみが浅い。それを「女のドラマ」でとすれば、家族・男と女の問題をテーマにすること自体が、女子供向けであるという拓氏の蔑視観が見えてくる。ホームドラマは男が見るもんじゃないという思い上がりをもった男たちに「シャツの店」は一撃を与えたのではないのか。

 「家族」の問題は深刻で身近過ぎるので、とりあえず身をかわして上滑りの面白おかしく、やたらと食卓囲んでみそ汁をすするホームドラマが氾濫してしまったが、本当はちっとも面白くない。面白くないのは「女のドラマ」だからだと、女に濡れぎぬを着せられてはかなわない。

 「シャツの店」で妻が「好きと言ってほしい」と言い夫がそれに答えたのは、脚本家山田太一のやさしさが言わせたのではないし、ましてや「今日のテレビドラマの宿命」ではない。男がテレを捨てシビアに受け止めれば、人間が人間らしく生きていく上での、至極当たり前の条件なのである。拓氏的男たちはそろそろこのことに気付いてほしい。」(「月刊家族」創刊号) 

 

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