私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

飯島敏宏 × 小倉一郎 × 仲雅美 トークショー(2017)レポート・『冬の雲』『衝動殺人 息子よ』(4)

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木下惠介監督について (3)】

 常連だった秋野太作の旧芸名は、津坂匡章

 

飯島「津坂くんが秋野太作って名前にしたら、木下さんに「何ですか、その名前!」って怒られた。ぼくは関係ないんだけど(笑)」

小倉「『俺たちの朝』(1976)の役名が “秋の超大作” から来てて、津坂さんはそれを気に入ったらしい。新劇人は芸名つけないから、芸名にあこがれがあったらしいです」

飯島「木下さんは津坂匡章って名前が好きだったんですよ。それが変わったから気にくわなくて。ぼくは何にも関係ないのに」

小倉「『記念樹』(1966)とかシリアスな役をやってた人なんですけど、秋野太作になった途端、変わっちゃった(笑)。秋野さんのラジオに出してもらったことがあって、共演多いですよねって言ったら「きみとぼくは演技の流派がいっしょだから」と。いっしょにしないでくださいと言いました(一同笑)」

 

 木下監督が映画に戻ってからの『衝動殺人 息子よ』(1979)なども、飯島氏はプロデュースしている。

 

小倉「誰かに依頼したら、木下先生が気に入らなくて断っていらっしゃいと」

飯島「それはひとつふたつじゃない。『衝動殺人』の女優さんも新聞発表と違うでしょ。木下さんは最初から高峰(高峰秀子)さんでやりたかったの。あのときのTBSの社長は立派で「木下監督が本当に撮りたいものを撮らせなさい」と。松竹は『二十四の瞳』(1954)みたいなのがよくて『衝動殺人』なんか撮ってもらいたくない。だけどお金はTBSが出す。それで新聞発表した女優さんには謝りに行ったの。「今後、一切木下先生とは仕事をいたしません。あなたともよ」って言われたわけ。それで降りてくださって、高峰さんのところに行って「やっぱり先生は私とやりたかったのね」と。

 ぼくは、あの映画はお客が入らないと思ったんです。TBSの社長と入らなくてもいいと約束して。それで初日に行かなかったら松竹から電話かかってきて、何で来ないのと。客が詰めかけてる。なのに木下惠介プロのプロデューサーが来てないと。お金いらないって言ったTBSにもペイした。木下さんの周りにはお金がついてくる(笑)」  

【『冬の雲』(1)】

飯島「TBSの中でも木下惠介劇場を撮ってたHスタジオは特殊だった。赤を基調にしてて、映像がちょっと赤っぽい。それが狙いなんだね。これを撮ってるころは暗いところをいちいち計測してた。デジタルじゃないんで」

「木下プロはすごいと思ったのは『冬の雲』(1971)が1月にスタートする前の暮れに、スタッフとの交流を深める食事会をやろうと、60人くらい。連絡が来て、次の土日に京都に肉食いに行きましょうと。新幹線で京都へ行って、みんな60人分シングルで部屋とってあって」

小倉「おれは行ってない(笑)」

飯島「新幹線で、監督と助監督とプロデューサーと俳優はグリーンだったでしょ。俳優さんにも序列があって、グリーンとそうでない人とか。そういうとこ映画はうるさい。テレビはぐちゃぐちゃ」

「週のうち4日間は拘束される。お昼ちょっと前開始で、夜の7〜8時までリハーサル。本番は2日で1時間分を撮る。お昼は近くのお弁当屋さんで、3時になるとトップスからケーキやコーヒーとか。すごいところだったな」

飯島「名店から来てた。赤坂にあったし、予算もいまと違うんで。木下さんが難しいのは、おしんこが嫌いでおしんこ抜き。いいお弁当屋さんで「ぼくは別にいいけど、みんなは食べたいですよね、飯島くん」って言うからああ、そうですね。それでちゃんと抜きでって頼んだのに、入ってたんだな。木下さんは「あそこは最低です!」(一同笑)。実家が漬け物のお店で」

鶴田浩二さんに聞きました。トラウマじゃないけど、そのにおいが」

飯島「ピクルスはおしんこだと思う? 赤坂のカレー屋でピクルスが出てきて、どっちかなと思ったら、ピクルスはおしんこじゃないと」

小倉「撮影所で「先生、お漬け物どうぞ」って言った人がクビになったと聞きました(一同笑)。山田太一さんは漬け物屋さんの前を通らず、木下監督のところへ行ったと」

「え、においがついちゃうから?」

飯島「「ぼくは食べないけど、きみは食べなさい」って言われたことはあります。気を遣ってくれるんだよね。こっちも江戸っ子だから、そう言われると食べちゃう」

小倉「『冬の雲』では、木下先生が「あなたよかったね。あなたに同情票が集まって」(一同笑)。暗い役はいっぱいやってました。ポーラ名作劇場の『積木の箱』(1968)とかね。デビュー作が脳腫瘍で死ぬ役でした。暗い役飽きてるって言っちゃった。そしたら「あら、そうなの。じゃあ明るいの書いてあげるよ!」。それで『太陽の涙』(1972)を書いてくださって、三の線というか『それぞれの秋』(1973)につながった」(つづく)