私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

満田かずほ監督 × 江村奈美 トークショー レポート・『マイティジャック』『戦え!マイティジャック』(3)

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【『戦え!マイティジャック』の俳優陣】

 『戦え!マイティジャック』(1968)では、南廣の隊長のほかに、二瓶正也が前作から続投。江原氏や渚健二、山口暁が加入した。

 

満田「おれは数人目の監督で、知り合いだったのは二瓶正也。渚健二はADやってた番組に出てた。初対面は奈美と山口暁。山口が誰かに吹き込まれて、満田監督は怖いって。会ってると震えてたから、どうしたんだよって。怖いなんて嘘だよって言ったら、後で“ほんとにそうでした”って(笑)。

 東映のころから、南廣はサウスって呼ばれてたね。(ドラムのシーンは)サウスがもともとドラマーで、ドラムのシーン入れて下さいよって言われてたんで。二瓶正也加山雄三のバンドでドラム叩いてたし」

江村「南廣さんにはかわいがっていただいて、ご自宅にも呼んでいただきました。奥さまとお嬢さんもいらっしゃいましたね。

 二瓶さんは明るくて、当時いきなり抱きつかれて泣いたこともありました(一同笑)。お酒を飲むと声が大きくて、隣にすわりたくないですね、叩いてくるから。二瓶ちゃんとは家が近くて、いまも食事したり電話で話したり。いまはカーネル・サンダースみたいですね。やせないと死んじゃう(笑)。その格好で倒れると、介護士に嫌われるよって」

満田「二瓶ちゃんには、注文を言いやすかったですね。去年のトークショーで、NGの連続でおれを恨んでたっていうんだけど。缶蹴るシーンでフレームに収まってなかったからで、芝居がダメっていうんじゃないんだけど」

江村「カメラがこっち撮って、次にそっち撮って、そのつながりも私は判らなかった。渚さんはちゃんと計算してたらしいけど」

 

 江村氏は、渚健二氏と結婚していた時期もあった。媒酌人は満田監督が務めたという。

 

江村「(渚には)気をつけろって言われてたんだけど、気をつけすぎてはまってしまった(一同笑)。最初は気難しいし、人を鋭い目で見てるし、あまりフレンドリーじゃなかったです。青春スターで、芸歴10年以上の演技力に定評のある人。結婚していても常に怖かった。神経使いましたね。でも彼が私を育ててくれたってところはありますね。女性が外で働くことにも協力的でしたし。働けば男性の気持ちも判るって」

満田「(渚は)TBSでバイトのADやっていたころから知ってて、仲間って感じだね。健ちゃんって呼んでた。山口も『ウルトラセブン』に出てたね(「栄光は誰のために」)。

 『戦え!』で5人になってからは、こぢんまりとして愉しいチームだったよ」

江村「(終わるころには)食事に行くにも休憩するにも、男性4人でつるんで、麻雀したり。私に“おい、ついてこい”と。仲良かったですね」

 

 満田氏演出の第12、3話には『ウルトラセブン』(1967)に主演した森次晃嗣がゲスト出演。

 

満田「森次ちゃんのスケジュールが空いたんで、出てよって。二瓶ちゃんと森次ちゃんは仲良しで、いいコンビだったんで」

江村「『戦え』のころは森次ちゃんとはつきあいがなくて、後で二瓶ちゃん経由で知り合いました」

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 【その他の発言】

 江原氏は、『恐怖劇場アンバランス』(1973)の「猫は知っていた」に看護婦役で出演。満田氏が監督・脚本を務めている。

 

江村「(出番は)ちょっとですよ。なぜか看護婦役がつづいてました」

満田「(原作の)仁木悦子さんは円谷プロの近くにお住まいで、原作もらうのもプロデューサーじゃなくてぼくが行った。ほんとは市川森一に書いてもらうつもりだったんだけど書いてくれないんで、まとめてたら結局自分の脚本になっちゃった。

 撮影初日に十二指腸潰瘍で出てこれないかなと思いつつ、入院せずに薬だけでした。“顔が青いね”ってみんなに言われた」

DVD恐怖劇場アンバランス Vol.3

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 その後、江原氏は引退。

 

江村「止めるとき未練はありましたよ。舞台が好きでしたから、その後10〜20年、舞台を見るのが厭でしたね。ずっとつづけてたらって思います。私と同世代の女優さんってあまりいない。最近やっと舞台も見られるようになりました。

 私は喜劇ばかりで、唯一シリアスだったのが加藤剛さんの『孤独のメス』(1969)。

 孫も(『戦え!マイティ』を)見ているようで、“笑っちゃう”とか言われて」

 

 満田監督は、後年はプロデュースや円谷プロダクションの経営がメインの業務になったが、『恐竜大戦争アイゼンボーグ』(1977)では比較的多数のエピソードを監督している。アニメと実写を合成した異色の特撮ドラマである。

 

満田「『スターウォーズ』(1977)ができて、当時は代理店が“『スターウォーズ』では××”とか言ってきて、あれを見ないと話にならないという情況で。日本に来るまで6か月かかるので、台湾まで見に行きました。その要素を取り入れてみたりしましたね」

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 『マイティジャック』2部作をプロデュースしたのは、当時フジテレビに在籍した円谷皐。その後皐氏は、円谷プロに入社(1995年に逝去)。

 

江原「皐さんは、あまり印象にないけど、優しい方でしたね。私が会ったときは、円谷エンタープライズの社長としてでした」

満田「皐さんとの出会いは、「WOO」がフリーズ(凍結)した後の『ウルトラQ』(1966)。(円谷プロに来たのは)『ウルトラマンタロウ』(1973)から。一(円谷一)さんが73年に亡くなってるから。

 商売的なことは皐さんが長けていたよね。芸術的なことは一さん。皐さんはディレクター的なこともしてたようだけど、プロデューサーが多いかな。ほかに上海に会社をつくったり。

 (皐さんは)ずっと千葉のほうに入院していて、お見舞いに行ったこともあるから、(死は)突然でもないかな。あとどのくらいってことは、おれたち知らされてなかったけど、役員が呼ばれて“○○をよろしく”とか言われて覚悟していたから、一さんのときよりショックは少なかったね」

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 ラストでは、江村氏から満田監督に花束が渡された。

 

江村「監督、お世話になりました。これからもよろしく」

満田「たまには会おうよ。奈美はお酒飲まないからね。アンヌみたいに飲めば…」

江村「何かあったら言ってください。介護いたしますから(一同笑)」