私の中の見えない炎

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山田太一 トークショー レポート・『夕暮れの時間に』(1)

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 2013年にムック『山田太一 テレビから聴こえたアフォリズム』(河出書房新社)が刊行。その際に山田氏のエッセイ本の企画が生まれ、ムックの編集を担当した清田麻衣子氏(里山社)が中心となって進み、『夕暮れの時間に』河出書房新社に結実した。

 池袋のジュンク堂書店にて、刊行を記念して山田先生のトークショーが行われた。山田氏の講演やトークはよく行くのだが、大きな会場よりも今回のように小規模で話すほうがやりやすいのか、氏は元気でいきいきしているように思える。トークの相手役は、編集の清田氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 (タイトルの『夕暮れの時間に』は)ひとつはエッセイを書いたりするのが夕方なので(笑)。人生の夕暮れを生きていると、どなたも疑わない歳になりまして。もちろんどんなふうにおとりになってもいいんですが。

 (2013年に刊行されたエッセイ)『月日の残像』(新潮社)は70代に書いたもので、『夕暮れ』はその間にあちこちから依頼を受けて書いたものが中心になっていますね。

 

 私は、20代は松竹で助監督をやっていまして、そのころ小津安二郎さんは大巨匠でしたから、遠くで見ると最敬礼。近くへ行くのは怖い(笑)。

 小津さんは24歳のときに監督になられて、監督をすごい年月やっていらっしゃって亡くなったんですけど。最初に監督をしたころ、社員食堂でライスカレーを頼んだら、後から来た年配の監督がやっぱりライスカレーを頼んで、給仕が先輩のほうにカレーを先に持って行った。小津さんは激怒して、給仕を殴っちゃったと(一同笑)。若さってそういうもので、後年の小津さんとは違う。

 『東京物語』(1954)のときには、小津さんは発散して自己を外へ出すのではなく、自分の周りに封じ手をつくることで人格、作家としての自分をつくっていった。封じ手はものすごいことで、カメラをローポジションにして、上から見るようには撮らない。イデオロギーだとか倫理ではなく、ご自分で性に合う視線がそれだった。(画面で)顔を合わせない。それは人間観を示していると言う評論家もいるけど、ぼくはただ平凡なのが厭だったんじゃないかなと思います。フェードアウト、フェードイン、オーバーラップも使わない。誰かが喋った後、16コマ空けて次の人が喋るというルールを決めた。小津さんの編集室、怖いので、誰もいないときにのぞいたら、机に16コマ分の(間隔で)傷がついてて、それで16コマがパッと測れるように(笑)。封じ手をお決めになって、傑作をおつくりになった。

 どんな会話もその間でやるわけですから、作品は限定される。言葉を被らせたり、議論ができない。小津さんは同じ話をつくると(評論家などに)言われまして、(本人も)おれは豆腐しかつくれないと言っていたそうで、それは苦しみでもあった。限定された物語で、波乱万丈は撮れない。移動撮影もなく、普通なら使えるものは何だって使っちゃうのに。そうやって自己限定する。似てしまって、物語を思いつかなくて大変という談話もありました。

 最後の『秋刀魚の味』(1962)、(常連だった)原節子さんはいなくて笠智衆さんだけ。笠さんは離せなかったんですね。『晩春』(1949)のリメイクで、誇り高い小津さんが晩年に露骨な自己模倣をした。俳優さんは違いますが、(焼き直しと)言われる覚悟で、同じものをつくった。ぼくは素晴らしいと思って、自己模倣をしちゃいけないと誰が決めたのか。興行上は新しいものが要求されるけど、小津さんはこれでいいと思って、繰りかえして深めた。それは素敵なことで、『秋刀魚の味』はユーモアも入っていて、もしかすると『東京物語』よりいいんじゃないかと思うくらい。『東京物語』ではまだお若くて、(主演の)笠さんも40代なのに70代を演じて、老けてないと怒られてたそうですけど。小津さんは最後に決心して繰りかえした。(つづく)

 

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