私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

蓮實重彦 トークショー “ハリウッド映画史講義” レポート・『拳銃魔』(3)

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 ふたつほどオットー・プレミンジャーの優れた演出について語りたいと思います。 

 (『堕ちた天使』〈1945〉では)ダナ・アンドリュースは悪さをしてきたけれども、いまはポケットに運賃がなくなって小さな町に落ち着く。リンダ・ダーネル演じる女給に惚れて、結婚するために金持ちにならなければいけない。金持ちになるために偽装結婚する。誰がいちばん悪かったかというと、最初からあいつに違いないと思っていた人です。『堕ちた天使』では街を歩いていくシーンがワンシーンワンショットになっていて、手前に木陰が見え、遮る物がなくなると道を渡る。寸前に自転車が来て、自転車から女性を救おうとして右手に手を添えると痛がられる。この一連のワンシーンワンショットが素晴らしいわけですね。どんな監督も一度くらいワンシーンワンショットで撮ってみたいという欲求を抱くと思うんですけれども、優れた場面です。また、結婚したとは言え愛し合ってはいないふたりがサンフランシスコで夜を過ごすときに、ダブルベッドで衣装も脱ぐことなく寝てしまうと、ネオンサインにやや焦点が合って、そしてはるかに海の反映が見えてくる。その時間の経過が素晴らしいわけです。 

 クリス・フジワラ氏が大部の本を書いておられます。“The World and Its Double: The Life and Work of Otto Preminger” という、若干読みにくい。プレミンジャーの理解にとっては欠かせない本ですから、お読みいただきたいと思います。 

 『天使の顔』(1953)はジーン・シモンズが、お父さんのハーバード・マーシャルが好きなんだけど、お父さんは継母とうまくいっていない。継母がガス漏れで気持ち悪くなって、救急車を呼ぶ。その救急士がロバート・ミッチャムで、彼をジーン・シモンズが見初めてしまう。それでさまざまな手を使って彼を落とそうとするんだけれども、彼には恋人がいる。心理的なサスペンスですね。ピストル騒動ようなことは一切ない、優れた作品です。ラストの車の転落はすごいわけですね。あの場面はオットー・プレミンジャーも考えまして、男の自殺か女の自殺か。自殺はハリウッドではコードで禁じられているものなんですね。そこで自殺のはしないで、あのようなもう一度起こると誰もが考えているけれどもあそこで起こるとは思わないというような墜落事故で、ふたりが死んでしまう。陰惨な空気が漂っています。 

 オットー・プレミンジャーの次の作品『月蒼くして』(1953)も心理的サスペンスです。全くコードとは関係ないところで撮るんだと言って、かなり淫靡な言葉を直接口にする女優を出してしまい、市民たちを惹きつけて当たってしまいます。マギー・マクナマラオードリー・ヘップバーンと同時にオスカーにノミネートされて、結局のところはヘップバーンの一人天下になってしまいました。

 オットー・プレミンジャーは見るからに顔がよくない。顔は自分のことを棚に上げてするなという話ですが、世界一人相の悪い監督だと思っております。最終的には幸運を呼べない。『月蒼くして』の直前に『第十七捕虜収容所』(1953)に(俳優として)登場しますが、ゲシュタポの将校をやって時の人みたいになりましたけど、何故か大監督と思われないのは顔のせいだと思っております。やはり監督は顔なんですね。何ら理論的な根拠はないんですけど、厭な顔をした人で優れた映画を撮った人はひとりもいません。オットー・プレミンジャーも面白い顔なんですけれども、この人と朝昼晩ともにするかと思うと気分が滅入る。プレミンジャーは優れた監督だと思うんですが、どっか何か相容れないものがあり、それは彼の顔だと(一同笑)。それは彼の限界ではないですね。私の限界なんですけれども、逃れられない哀れな蓮實というものを、どうかお呪いいただきたいと思っております(一同笑)。