
【『女囚701号 さそり』】
伊藤氏は『女囚701号 さそり』(1972)により監督デビュー。主題歌「怨み節」も作詞している。クエンティン・タランティーノ監督『キル・ビル Vol.1』(2003)と『キル・ビル Vol.2』(2004)でも引用された。
伊藤「信頼できる作家ふたり(神波史男、松田寛夫)がつくった脚本だったんですけど、私には我慢ならないホンで、でも千載一遇の(監督デビューの)チャンスを離してはいかんという思いが一方であって、こういうふうにつくり直したいと正直にふたりにもプロデューサーにも話しました。じゃあ頭からやり直そうとふたりは言ってくれて。
『赤い夜光虫』(1966)では作詞した曲がレコードにならなかったですが、だから「怨み節」(『女囚701号 さそり』劇中歌)の作詞をしたわけじゃなくて、最初にホンづくりをやっている中で『網走番外地』(1965)の歌は網走刑務所で歌い継がれたものがもとになっていて、そういう女子刑務所で歌い継がれたのがないかと。助監督たちにさがしてくれと言ってたんですね。ないかないかってせっついてたんですが、ないと。ないとなったら原作者の篠原(篠原とおる)さん以下、大勢が書いてきまして。大仰な歌詞がたくさん来たもんですから、それでは困るなと自分でつくっちゃった。そうしたら流行り歌になったということがあります。タランティーノは落書き野郎みたいなもので、諸外国でのアメリカ映画の力は強くていまもって多少の印税は入ってくる(笑)。彼が『キル・ビル』の2作目でも使ってくれてますのでね。
後から考えれば組合闘争がなければ幸せな青春期を送れたかなという感じがするんですね。『さそり』にしても肩肘張って、極めて情況的な映画ですね。あの時代が終わったら見離されるだろうと思ったら、意外と長つづきしたところはあります。組合でなくもっと映画一途にやってたら謳歌できたかなと。でもそれもまた青春ですね」
【若山富三郎の想い出】
『懲役十八年 仮出獄』(1967)で助監督として接した若山富三郎は『白蛇抄』(1983)でも起用し、その後もつき合いがあったという。
伊藤「『白蛇抄』では若山さんは心臓を悪くして入院していたんですけど、病室に頼みに行って出演をお願いしたことがありました。伊藤の野郎に頼まれて出たら女の股ぐらに何のかんのって言ってましたけど(笑)」
認知症を扱った『花いちもんめ』(1985)は話題を呼んだ。
伊藤「京都で『花いちもんめ』を撮っていたとき、日下部五朗さんがプロデューサーで、京都の日下部と言われた二大プロデューサー。日下部さんが私に、地味な作品だから主役は大スターで行きたいと思うと。私は当然賛成で、いちばん最初に指名したのが三船敏郎さん。三船プロにいたプロデューサーの鍋島(鍋島壽夫)さんに後で当時のことを聞いたんですけど、三船さんは悩まれたらしい。随分待たされたんですよ。私たちは断るならすぐ断ってほしい(笑)。2週間ぐらいかかっちゃって、次に話したのは山村聰さん。山村さんは乗り気で2回会って、入れ歯を外すか外さないかで彼は何とか外さないでやれないかと。私は外してほしくて、結局は私が譲らなくて彼が乗って来なかったです。いよいよ最後に誰にするって話になって、私は最初から千秋実さんのイメージがあったんです。体が大きくて扱いにくくて、でも深刻さがあの顔で相殺できるっていうか。私はいつ千秋さんって案を出そうかと思ってたんですけど、日下部さん以下の京都勢が全部、ある俳優を思ってたんです。それが若山さん。多勢に無勢ですよ。私は『白蛇抄』で、若山さんが病院でニトログリセリンのあれを貼って、心臓が悪いってことも知りながら、頼み込んで出てもらった。そのときに小柳(小柳ルミ子)くんから相談を受けたことがあって「若山さんのプレゼント攻勢が」と。私は「若山さんにそこまでの元気はないから大丈夫大丈夫」(一同笑)。まだ色気紛々っていう印象がありました。当時、テレビ『事件』(1978)に若山さんが刑事役で出てすごくいい味を出してたんですよ。それを京都勢は見て、若山さんだっていう感じだった。しかし私は、まだ枯れてない若山さんをこの役に引っ張り出すのは…と思って、それで何とか日下部さんを説得して千秋さんを訪ねた。そしたら三船さんから耳に入ったのか千秋さんは厭味たらたら。クランクインが迫ってギリギリなのにこんな長台詞って。ただでさえ、くも膜下出血で倒れた自分にこんなの、とか。ここまで言うくらいだから逆に大丈夫だろうと。日下部さんも認めてくれて、本社に行って決めました。宣伝部を待たしていましたので。そうしたら奥さん役の加藤治子さんが、三船さんにホンを渡した段階で加藤さんにもホンを渡していち早くOKをもらってたんですが「ひと月くらい台本を吟味して読んでますけれども、私のイメージの中に千秋実さんは全くありません。今回は降ろさせてもらいます」。すぐ直行しました。夕方くらいまでかかって加藤さんを説得して、次の日に新幹線に乗って京都に行ったってことがありましたね。このことは、若山さんは知らないんですけど」
伊藤「若山さんとはその後、テレビ『白旗の少女』(1990)で香川京子さんとの共演で、ガマにいて白旗の少女を送り出すという重要な役をやってくださいました。若山さんは最後の最後まで沖縄の物語をつくりたがっていて、ずっと企画を考えたりしていました。
京都で撮ったのは『花いちもんめ』が最初で、すぐつづいて撮った『花園の迷宮』(1988)も京都で、それから賛否両論が渦巻いた『プライド』(1998)。京都のステージに市ヶ谷の戦犯法廷を丸ごとつくりました」



