
【助監督時代 (2)】
伊藤「いまは作品に関与したら機材を運ぶ運転手、主役を運ぶドライバーすらクレジットに出る世の中になってるんですけど、私が助監督のころはチーフ助監督だけしか名前をクレジットに出さなかったものですから、あのときセカンドは誰でサードは誰だったか混乱しちゃう。自分がやっていても忘れてしまう。今回の(特集上映の)9本もすべてセカンド以下だったので、名前はテロップに書かれてない。
東撮の撮影部は順番制を建前にして、監督にお気に入りだからとか仕事ができるからとかできないからとかでなく、平等に順番送りで(助監督の)編成をしようというのが原則。ただ一概にはそうならなかったですけど。
深作(深作欣二)さんがデビューするときは、ほんとに遠慮なくというか「作さん、こんなのでデビューしちゃダメだ」って小松範任と私とで反対したんですね。深作さんは「いや、監督になるのが大事なんだ」って。いや、なりようがある、監督になるだけが能じゃないとか言ったりして若かったですね。深作さんとは7期違う。その後が佐藤純彌さん、降旗(降旗康男)さん、野田幸男さん。野田さんは意外と早く亡くなっちゃいましたね。内藤誠さんが1年上、下が澤井信一郎、小平裕とつづくんですけど彼らは先に逝っちゃった。
『赤い夜光虫』(1966)は梅宮(梅宮辰夫)さん主演の夜の帝王シリーズのさきがけになったもので、私はセカンド(助監督)だったように思うんですけど。歌の作詞をふたつしてるんですね。ひとつはレズビアンの歌。もうひとつは谷隼人と大原麗子さんが御堂筋を歩いてくるラストシーンにかぶせたもの。レコードになる話もありましてね、でも結局はならなかった(笑)」
【マキノ雅弘の想い出】
『浪人街』(1928)や『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970)などの巨匠・マキノ雅弘にもついた。
伊藤「マキノ雅弘さんがおいでになったときは、最初の『任侠男一匹』(1965)からついて、澤井くんもいました。マキノさんはまず台本に対する悪口雑言から始まるわけですよ。結局は彼が言うことを拾いつつこちら側でつくって、ホンの体をなす。渋谷の三業地の宿屋で、私と澤井とを目の前にマキノさんが悪口雑言を言うんですが、ときどきちらっと芝居の核心になる言葉が発せられるんですよ。それを拾ってホンの形にする。(クランク・インの)ギリギリまでやってました。
伊藤「『ごろつき』(1968)は(脚本が石松愛弘だが)われわれが全部書き直して、それをスクリプターの山之内康代さんが清書してホンになりました。私も監督になったとき、過去とはおさらばという感じで助監督作品の台本は捨てちゃったんですけど、その山之内さんの手書きの台本は残したんです。『ごろつき』はキックボクシングをやってる高倉健が弟分の菅原文太を連れて上京して、身を立てようとする。いろいろアルバイトしなくちゃいけなくて、流しをやったりする。文ちゃんがギターを弾いて、健さんが「網走番外地」を歌う(笑)。サービス精神に富んだ映画ですけど、肝腎のキックボクシングの場面で、撮影の朝にマキノさんから電話で「お前、撮っといてくれ」。マキノさんがボクシングを嫌いなのは判ってたんですけど、そんならきのうの夜にヒントを与えてくれればコンテをつくっておいたのに。エキストラの数がほんとに限られていたんですよ。人をコーナーの後ろに入れると、こっちはがらがらで人がいない(笑)。キックボクシングは動きがないといけないのに。あらかじめカット割りを決めておけば、ちょっと動けない憾みがあるんですけどね。もし『ごろつき』をごらんになったら、あそこは伊藤だと(笑)」
伊藤「佐藤純彌さんの『ギャング対ギャング 赤と黒のブルース』(1972)でポスト藤純子のひとりだった藤浩子の演技指導の役割で私は関与していて、そのときに『女囚701号 さそり』(1972)で監督デビューの話が出てきたんで、演技指導は大体済んだし離れるという報告を京都に行ってしてくれと言われて。そしたら『純子引退記念映画 関東緋桜一家』(1972)を撮っていたマキノさんが京都の制作課にいらして、マキノさんに話しかけたら、セット開始なのに延々30分も話すんですよ。(撮影が)始まってますよって言ってもいいんだいいんだって。だから男女の場面とか山下耕作さんに(演出を)やらせたんですね。アクションのシーンは小沢茂弘さんに撮らせた。そういう局面もありましたね」
【石井輝男反対運動】
東映で石井輝男監督が『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969)などを撮った際には、撮影所で反対運動が勃発。
伊藤「反対運動は朝日新聞なんかが言うところの常識的な、風俗紊乱反対みたいなその程度のレベルでしたから。作家であることを目指している助監督としては、そのレベルで反対すべきではない。また、会社が敷いた路線で一括して扱うべきではないと。来るべき作家として向き合って、批評ならいいけれども良俗になびくように反対すべきでないと、そういう話をしました。手書きのビラで4枚ぐらいガリ版で刷って出したんですけど。そうしたら私の1年先輩の小松範任が京都演出部の反対声明に署名しないと格調高い反論を書きました。つまり伊藤の主張を受けて反論すると。石井さんを擁護するわけではなかったんですけど、嬉しかったらしくてね。しばらくして京都で私がトイレに入っていたら、石井さんが追いかけてきて「俊也ちゃん、『さそり』には参りました!」って(一同笑)。私は何でかなと、何で石井さんに愛想よくされたのかピンと来なかったんですが、後でリップサービスかなと」(つづく)




