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伊藤俊也 トークショー レポート・『懲役十八年 仮出獄』『弾丸大将』『荒野の渡世人』(1)

 映画『女囚701号 さそり』(1972)や『犬神の悪霊』(1977)、『誘拐報道』(1982)などで知られる伊藤俊也監督。

 2024年3月に東映映画の特集上映が行われ、多数の作品で助監督を務めた伊藤氏のトークもあった(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

犬神の悪霊

犬神の悪霊

  • 大和田伸也
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【『懲役十八年 仮出獄』】

 降旗康男監督『懲役十八年 仮出獄』(1967)は伊藤氏が助監督(B班監督)を担当。安藤昇、伊丹十三、若山富三郎、松尾嘉代、伴淳三郎など多彩なキャストが顔を揃えて面白く、ヨーロッパ映画のイミテーションのような美しい映像に魅せられる。

 

伊藤「あの当時は公開日まで時間がなくて、B班を回さざるを得ない。何故B班が必要かっていうと、切羽詰まって公開日まで日数の余裕がなかったものですから。だからチーフ助監督にB班を回してくれって話になったわけで。いまは助監督にカメラを回させる余裕もないんですけど。私は特に自分が何らかの形で回せるチャンスを得たらなるたけ回してやれっていう、そういうタイプでした(笑)。

 あまりたくさんではなかったように思うんですけど、とにかく私は若山富三郎班で。安藤さんと伊丹さんがセットで金庫を開ける間に、そのころに若山さんは表で車の番をしていて対抗勢力が来たらそれを払う場面とか。若山さんがつかまっているところもそうですね。降旗さんはスマートな人でセット撮影もさらっと定時に終わる。私のほうは何のかんので、もともと夜の撮影だったのもありますけど、伊藤班はB班のくせに残業残業だって。そういう話ってのは本社は好きなんですよ。私の評判はあんまりよくなかったです(笑)。ただ若山さんとは仲良くなってましたので、私にとっても想い出深い。若山さんはエネルギーに満ち満ちてましたね。歌もほんとに上手くて、よく聞かせてくれました。

 松尾嘉代さんもまだ若くて、その後にいろいろ出ていただいて。好きな女優でしたね。

 降旗作品は私も結構やってますね。すごくスマートで、スタッフや俳優さんにも評判のいい人でしたね。助監督時代は彼がセカンドで私がサードっていうような。関川秀雄監督の『大いなる驀進』(1960)ではふたりで組みましたし、どこだったか田舎の小屋へフェリーニの『甘い生活』(1959)を見に行ったこともありました」

【助監督時代 (1)】

伊藤「酸いも甘いもわが映画の青春時代ですが(笑)、組合運動と会社の反転攻勢という厳しい情況に置かれまして、映画の制作を思うように愉しめなかったところもあります。緑魔子さんに久しぶりにどっかでお会いしたときに、伊藤の顔を見ると組合活動で赤いはちまきをしていた姿しか思い浮かばないと(笑)。そういう時代でした。

 (入社時に希望は)東京で出しました。京都に行くって感じはなかったですね。(入社して初参加したのは)『弾丸大将』(1960)という家城巳代治さんの。私はフォース助監督でサードが内藤誠さん。セカンドは内田吐夢さんの次男の内田有作さん。有作さんは制作畑だったのが助監督になって京都から東京へ来ました。御殿場が、アメリカ軍が進駐してる雰囲気を残している時代でね。そういう中で弾丸の薬莢を拾って商売をしてたけど、アメリカ軍から自衛隊になったら自衛隊が回収してしまうんで商売にならないという話で、実にやわな自衛隊批判(笑)。自衛隊は宣伝宣伝の時代でいろんな協力をしてくれて、私はカチンコも叩いたんですけれども、自衛隊のお偉いさんのおつき合いで彼らがパチンコやりたいと言ったらいっしょについて行ったり(笑)。

 (特集上映の)プログラムのうち9本に助監督としてついておりまして、1本は予告編を私が。『荒野の渡世人』(1968)っていう健(高倉健)さんの写真ですけど、オーストラリアロケに監督をはじめスタッフが言っておりまして、私は撮影所におりまして、野田幸男さんのデビュー作の『プロレスWリーグ 血ぬられた王者』(1968)という馬場(ジャイアント馬場)さん主役のプロレス映画でチーフ助監督兼インタビューアーをしておりました。それで『荒野の渡世人』のロケ班に頼まれてその予告編をつくったということがありまして。予告編づくりは、いまでは実際に撮られた作品から(映像を)使うんですけど、私たちの時代にはフィルムを使う権利が予告編には与えられて。監督にとっては厭味な話なんだけれども、ライティングを変えると照明部さんが厭がるし、手間もかかるので変えませんが、自分でアレンジして芝居も台本通りじゃなくて、短い形で要点を得るような形で(新規の映像を撮る)。お芝居も自分流につける。そういう作業をすることで日ごろの鬱憤を晴らす(笑)。監督になるチャンスが果たしてあるかという。一時期、われわれの合い言葉は「撮らずしてなおかつ作家たり得るか」。そういう議論を演出部でしていたくらいで、会社と対立してたわけですから絶望的な情況がつづいていたわけですね。私も当然、30歳前に監督になるつもりでいたんですけれども、最初の作品が撮れたのは35歳ぐらいでした。(つづく

 

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