私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

中堀正夫 × 北浦嗣巳 × 碓井広義 × 後藤勝彦 × 油谷岩夫 トークショー レポート・『波の盆』(1)

 ハワイに暮らす日系1世の老人(笠智衆)の前に、日本から来た孫(石田えり)が現れる。老人は想い出の中で亡くなった妻(加藤治子)や息子(中井貴一)と語らっていた。

 戦争や時代のうねりに翻弄される日系移民を描いたテレビ『波の盆』(1983)。円熟期の倉本聰脚本 × 実相寺昭雄演出による名作である。

 2023年11月に神保町で『波の盆』について語るイベントがあり、撮影の中堀正夫、チーフ助監督の北浦嗣巳の両氏が登壇。制作助手だった碓井広義氏や技術の後藤勝彦氏も途中から発言された。聞き手は技術プロデューサーの油谷岩夫氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

【『波の盆』の立ち上げ (1)】

 映画『あさき夢みし』(1974)で北浦氏は実相寺作品に初参加。複数の作品で実相寺の助監督を務めた。

 

油谷「北浦さんは古い仲間なので前から知ってるんですが、ぼくと仕事で関わったのが『波の盆』が初めてかな。北浦さんと実相寺監督とはいつから?」

北浦「『あさき夢みし』(1974)の助監督の下村(下村膳二)さんと知り合いだったので、当時は学生運動をやっててつぶれそうなときで、アルバイトしなくちゃいけないっていうんで『あさき夢みし』の現場に引っ張ってもらって。ロケハン担当の車の運転から始まって、それから実さんのいろんな作品で現場に行くようになりましたね」

 

 北浦氏はチーフ助監督で、その次に先輩の服部光則氏がクレジットされている。

 

北浦「『波の盆』では大先輩の服部さんという助監督がやる予定だったんですけど、服部さんは別の監督の作品をやることになって急遽、実相寺さんに「お前やれ」って言われて。その後、服部さんは別の作品がつぶれて戻って来て、セカンド(助監督)に。大先輩なのに」

油谷「大先輩ってほど歳変わらないじゃない?」

北浦「変わりますよ。3つか4つ上」

油谷「3つか4つは大したことない(笑)」

北浦「助監督は松宮健二というのと、それともうひとりいる予定だったのがいなくなって3人で。(服部さんは)大先輩でなかなか言うわけにもいかなくて大変でした(笑)」

 倉本聰と実相寺監督が組んだのは『波の盆』が唯一で、碓井氏が倉本にインタビューした『ドラマへの遺言』(新潮新書)でも触れられている。

 

碓井「1981年にテレビマンユニオンに入りました。このドラマは83年です。ユニオンの中で師匠と言える人が吉川(吉川正澄)プロデューサーで、吉川さんが『波の盆』のプロデューサー。吉川さんは麻布中高、東大と倉本聰さんの同期だったんですね。吉川さんがTBSに入ったときの動機が実相寺監督。吉川という人がいないと、倉本・実相寺はつながらなかったんですね。実際、この作品以外ではふたりはやっていません。

 吉川さんから「修行だから(チームに)入れ」って言われて、マウイ島のロケハンやロケにずっと参加させてもらいました。制作助手の駆け出しでした」

 中堀カメラマンは遺作『シルバー假面』(2006)まで多数の実相寺作品を手がける常連スタッフ。

 

油谷「中堀さんはこの作品を撮る前に経緯がありますね」

中堀「大変な経緯がありますね。1983年の後半につくってるんですけど、その年の2月中旬からクランクインする橋浦方人監督の映画『蜜月』を撮ってくれないかって話が来てて、映画で実相寺さん以外の監督とやるのは初めて。ぼくもテレビではやってるんですけど、映画で違う監督とやってみないと外の撮り方が判らない。自分が通用するのかやってみようと、その注文を引き受けたんですね。監督がどこで聞いたかわかんないけど、電話がかかって来て「お前、余計な仕事をするな」って(一同笑)。「余計なことを覚えてくることはねえ」って言われたんです。ずっと映画を撮りたいと思ってたんで、でも監督以外の人とやって監督の良さとか判るかもしれないし、そういう経験をしたほうがいいからどうしてもやりたいって言ったら、監督は「ああ、そう」。そのことがあってから(実相寺監督の率いる)コダイ・グループの事務所に行っても監督は顔を合わせないし、監督の仕事は猪瀬(猪瀬雅久)って奴がやるようになって、ぼくは完全に干されたんですね。半年くらい干されて、コダイの人に「倉本聰さんの台本が来たんだけど、クリちゃんどうする?」って。どうするったって、やりたいからやりますとも言えないし。その2週間くらい後に事務所に監督がいて「お前、この台本見たか?」って言われて「読んでません」「あ、そう」ってまた別れた(一同笑)。こりゃやっぱりダメなんだって思ってたら、それから後に事務所でまた会って「おれはこれからハワイに(ロケハンに)行ってくるけど、やるかやらないか帰ってきたときに返事すりゃあいいからやれるならやってくれ」と。

 おれは『北の国から』(1981)とか倉本さんの作品は延々と見てたし、倉本さんのホンに1回は参加したいと思ってて、そういうことはあったけど結局は行くことになったんですね」(つづく