私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

浦沢義雄 トークショー レポート・『カリキュラマシーン』『コント55号のなんでそうなるの』(1)

 『ペットントン』(1983)や『どきんちょ!ネムリン』(1984)、『美少女仮面ポワトリン』(1990)といった東映不思議コメディシリーズ、アニメ『忍たま乱太郎』(1993)や『名探偵コナン』、映画『オペレッタ狸御殿』(2005)など多彩でシュールな作品を手がける脚本家・浦沢義雄。その浦沢先生が自身のキャリアを振り返るトークが2023年8月に経堂で行われた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

【デビューとコント番組】

浦沢「(影響を受けたのは)『ひょっこりひょうたん島』(1964)。初めて面白いと思ったんだけど、途中からつまんなくなる。リトルキッドが生まれる途中まで。それまですごく面白かったけど、極端につまんなくなった。見なくなった。クラスで好きな奴もいて、そいつともうひとりで話したね。それまでNHKの人形劇ってさ、歌を歌って大嫌いだった(一同笑)。『チロリン村とくるみの木』(1956)とか。

 あと青島幸男クレイジーキャッツの歌とか。その歌詞が、すごいなこれ。でも青島さんのコント番組を見るとつまんない(一同笑)。面白かったのは河野洋の作品で、河野さんは青島さんの弟子。『おとなの漫画』(1956)のテロップで「作:河野洋」って出ると面白いんだ。子ども心にすごいなって」

 

 浦沢先生のキャリアはバラエティ番組のコント制作から始まった。その前はゴーゴー喫茶でダンサーをしていたという。

 

浦沢「(物書きデビューは)21歳くらい。踊るところで働いてた。踊りは好きだった。流行ってたんだよ。そこに(放送作家の)田村隆さんが来た。多分そういうことだと思うんだよ。その人たちが事務所(ペンタゴン)をつくってて、できたばっかりだった。原稿運びをやらないかって言われて。ゴーゴーにちょっと飽きてて辞めたいと思ってた。『ゲバゲバ』の原稿運びをやってたけど、書いてない。『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』(1969)のホンがあったんだ、事務所に。それを読んで、全部つまんないと思った(一同笑)。それで作家の人たちに「こういうギャグ、どうですか」って言ったら、結構採用されるんですよ。金になるなと思って。

 ペンタゴンで初めて河野洋さんに会ったら、1メートル90ぐらいある。かっこいい。すごく武装してるんだ。ペンタゴンはすごく恵まれてて、違う事務所は給料が3万ぐらいなのがペンタゴンは30万。洋さんが若い人にお金あげて、仕事をどんどんやらせる。それまで若い奴は修行するのにお金もらえなくてけちだけど、ペンタゴンは違った。洋さんはおれよりひと回り上で、おれが19歳で入ったから30ぐらいかな。

 洋さんが「作家になるか、マネージャーになるか、タレントになるか、局に行ってディレクターになるか。その4つしかうちはないから、ひとつ決めておきなさい」って言うから「じゃあ作家でいいです」(一同笑)。ペンタゴンはすごく居心地がよかったの。給料は安かったんですけど、原稿をタクシーで運ぶんです。別に電車で行ってもタクシー代を請求して平気だった。儲かってたんだね。ずっと1年ぐらいタクシー代で生活してた(一同笑)。赤坂だったから、さすがにTBSへは歩いていける。あとは全部タクシー使っていい。日テレは麹町。

 『ゲバゲバ』が終わって2年後ぐらいに『カリキュラマシーン』(1974)が始まったんです。そのメンバーに入れてもらった。おれは『カリキュラ』のスターだった(一同笑)。いちばん成績がよかったんです。(齋藤太朗ディレクターに)没にされることはほとんどなかった。

 原稿用紙1枚にギャグを書くのはいい。喰始さんは辞書を見ながらギャグを書いてる。漢字をあまり知らないから。そういうことやっていいんだったら、おれだって書ける。喰さんはペンタゴンの若い作家のひとりだった」

浦沢「『コント55号のなんでそうなるの』(1974)でもコントを書いてた。55号とか別に好きでもなかったんだけど。お笑いが嫌いだった、どっちかと言うと大嫌い。そういうのとは違うことをやりたいと思った。でも萩本(萩本欽一)さんは会うとすごく優秀なんです。やっぱみんなとオーラが違う。売れてたけど、1回人気がなくなって、『なんでそうなるの』の後くらいにまた人気が出てきた。

 『カリキュラマシーン』が終わって、作家をやめたくなった。『カリキュラマシーン』みたいな番組は他にないから。そのとき、パジャマ党の人に萩本さんは番組をたくさん持ってて忙しいからちょっと手伝ってって言われて。やめたいけど、お金くれるから(一同笑)。パジャマ党の人には恩義を感じてる、萩本さんにはそういうのないけど。手伝うったって大したこと何にもやんないけど。会議も行かないで、本番も行かなくて「構成泥棒」って言われてた。萩本さんの番組の、ほとんどの番組からお金もらってた、2年ぐらい。いま考えると許せないね(一同笑)」(つづく