
【荒井氏の登場 (2)】
ヤン「そのときはまだ母が認知症になるとは思わなかったし、新しい家族とおいしいものを食べるみたいな映画かなと考えていたら、済州島から研究所の方々がインタビューに来たり、認知症が始まったりと(『スープとイデオロギー』〈2022〉は)ドラマチックになっていきました。
劇映画は練りに練って画面を構築するんですが、ドキュメンタリーは偶然撮れた画で作らなくちゃいけない。私は26年間、家族を撮りましたけど「いまのもう1回喋って」とは言いませんでした。もごもご言って聞き取れなかったり、いい話をしてるのにカメラを持ってなかったり。「もう1回」って言うと信頼関係は一気に崩れるっていう恐怖感があって。ドキュメンタリーは俳優じゃないからやったらあかんと。私は撮られるときに「もう1回、言ってください」って言われるとむっとするんですね。説明不足なところは出てくるんですけど」
【研究所のインタビュー】
ヤン「研究所の方々が母にインタビューに来て、母がワッと喋る。あの方々が急に追い込んだから認知症が悪くなったんじゃないかって一部の方は言われて、研究所の方も私たちのせいかなっておっしゃったんです。二次加害じゃないかと。でもその前に10年近いリハーサルがあったわけです。最初は娘のカメラ以外は厭やって母は言ってた。でも同じ話を何度も私にして荒井にもして、母の中で整理できるようになって、研究所の方がいらしたんですね。だからあの日、実は母は喋る気満々だったんです。
研究所のメンバーは日本でも韓国でもアメリカでも、何十年もいろんなところで生存者をさがしてインタビューをつづけてる。韓国では、例えば済州国際空港の一角の土を掘ると、遺骨がごろごろ出てきたと。犠牲者をちゃんと弔ってなくて、言葉は悪いですけどゴミを棄てるように埋めちゃった。掘り起こすと子どもの骨も出てきたり、それを拾い上げて、DNA検査して誰のものか突きとめて、その記録をデータ化すると。そういうことも研究所はなさっている。
あの日のインタビューは、映画で使ってるのは7分ぐらいですが、母が3時間半も喋りました。村の大きな木、角の通り、派出所とか。研究所の方が「あの派出所はほんとに悪質で有名だったんです」って言うと母は「いえ、ひとりだけ親切な人がいたんです」って答える。こういう会話は荒井(荒井カオル)や私ではできなくて、本を読んだだけではできない。具体的な、土地の中で聴き取りをやった人だからできる質問で、研究所の方が済州島の方言を交えて質問すると母の目がパッと開いて「覚えてます」といままでにない話をする。妄想かもしれないし、間違った記憶かもしれないと私は思ったんですけど。実は画面に映ってない側に、研究所の人たちがいっぱい座ってたんです。LINEとかカカオとかでオンタイムで研究所に母の証言を送って、固有名詞を全部チェックしてその都度、返事が来たんです。全部正確に合ってました。70年前のことを正確に覚えてたんです。「うち、ちゃんと覚えてるやろ!」って。隠さなきゃいけないと思ってた記憶が、堂々と語れて、それが全部合ってると言われて母はすごく喜んだんですね。気持ちよく生ビールを飲んで。あの日の1週間後ぐらいから、だんだん「(亡くなった)アボジはどこ行った?」とか「お兄ちゃんどこ行った?」とか言い出したんですね。出し切ってくれた研究所の方々に私は感謝していて、母は解放されたんだと思っています」
【その他の発言】
ヤン「母は私に「早く映画をつくれ」「オモニは見られへんやないか」とも言ってて。ドキュメンタリーじゃなくて劇映画もつくれって。四・三の劇映画なんて、お金がいくらかかるか…。昔は「ややこしい映画やなくて、もっと単純な恋愛映画でもつくったらええんちゃうの」って言ってたんですが。やっと娘が、自分たちの話を映画にしていく人間だと認めてくれたようで。出し切ったから忘れさせてもらいますわ、みたいな感じで母はふわっと認知症になっていったんです。でもすごく穏やかで、アボジも息子も孫も鶴橋の家に暮らしてるつもりで、お金を北朝鮮に送らなきゃいけないという心配から解放された。荷物を送らなきゃいけない心配もなくなって、毎日にこにこして絵本を読んで。みんないっしょに暮らしてる60年代に戻ったのなら荒井はいないはずなのに、判るんです。誰がご飯代を出してくれるかは認識してる(一同笑)。荒井は「次に大阪に行ったらおれのこと判らないんじゃないか」と言いながら行ってくれたんですが、母は最後まで「カオルさん」「カオルさん」って言ってました。
過去のしんどい体験を聞き出す方はいらっしゃると思いますけど、いきなりほしいねたの質問を浴びせるのでなく、時間をかけて丁寧に聞き取っていただければと。四・三の生存者は少なくなるので。
私たちも最初は(済州島の)ツアーに参加しました。つらいツアーで、ずっと虐殺の現場を回って、どういうふうに殺されたか、遺された家族はどうしたかとか毎日聴くので、涙が出て。頭も痛いし、でも毎日ごはんがおいしいんですよ(一同笑)。ツアー参加をお勧めします。行かないと判らないんですね。研究所の方の通訳も素晴らしいです。
母がつけてたバッジは椿の花で、四・三のシンボルです。椿は枯れるとき、はらはら散らずにぼとっと落ちる。四・三の犠牲者の命が落ちるのに例えているんですね」

