――エロが純粋なオナニーツールというより、一つの娯楽として受容されていたんですね。
切通 今でこそ、割と遅い時間でも外を子供連れて歩いてる大人っていますけど、僕が子供の頃は「夜9時過ぎたら大人の時間」という感覚がハッキリあって、そこに子供が立ち入ることはできなかった。今みたいに、アニメを深夜にやってるなんて考えられなかったわけです。大人の世界には女性のヌードも出てくるけど、とはいえ裸だけがただ写されてるっていうことでもない。裸やセックスばっかりっていうのは当時の表現規制からいっても難しかったし、一つの大人文化としてエロの存在があったんじゃないですかね。
――規制をうまくかわしていくためにも文化として成熟していく必要があったということでしょうか。
切通 あるいは規制の外側にも大人の文化がありましたよね。当時はブルーフィルムなんてものもあったわけじゃないですか。業者の人が「こっち、こっち」なんて呼び込みをやって、エッチな映像をどっかの一室で見せたりね。今はそういったある種の犯罪的、アンダーグラウンド的なエロ文化って見つけづらい。せいぜい無修正ビデオくらいで。とはいえそれも海外サイトを経由すれば簡単にダウンロードできちゃうわけですから。
――それはもう時代の変化という一言に尽きますよね。
切通 そうですね。僕が二十代の会社員時代も、上司が海外旅行に行ったお土産として無修正の写真を買ってきて、封筒に入れたまま部下に自慢げに渡すわけです。ただ正直言えば当時すでにAVもあったし、僕らの世代にとっては自分の好みかもわかんない白人女性の無修正写真なんか買ってきて貰っても、たいしてありがたくない(笑)。でも上の世代にとっては当時はそれが無修正ってだけでまだ感動があった、それを使って実際オナニーするかっていうより、どこか秘密の共有文化として機能してるとこがあったんでしょう。
――そうですね。上の世代はコンテンツ量も圧倒的に少なかったでしょうから。でもこれはエロに限らずとも言えることだと思うんですが、文化的に何かを愛でる心性っていうのは、そういった不足の中で育まれていくものですよね。
切通 ピンク映画の魅力は人肌をデジタルでなく表現出来るフィルムの質感にもありますけど、制作側の実際的な理由としては、別にフィルムにこだわってると言うよりも、全国のピンク映画館の機材を一斉に入れ替えるだけの資金がないっていう部分があるわけですよ。ちょっと遅れた時代が残っているものに郷愁を感じる心性っていうのは、いつの時代にもあると思うんですよね。
――ですね。制作者側の意図とは別に、受け手が勝手に「味」を見出していくみたいな。
切通 そうそう。ただ、もちろん多数派ではない。大多数の人は直接ヌケるものを求めていきますから。世の趨勢には負けてしまう……というところにまた味わいがある。
恥ずかしいことをしてるんだっていう感覚はあった方がいい
――そうですね。では少し話題を変えます。切通さんは以前『失恋論』という本をお書きになられてますよね。また「乙女系」批評家なんて異名もある(笑)。本欄は性、ジェンダーの再考をテーマとしておりますので、切通さんには現代社会における恋愛のあり方について、少しお話をお聞していきたいんですが…、まず切通さんは若い世代と触れ合う機会も多かろうと思うんですが、恋愛や性の話をすることってあります?
切通 自分が失恋した時は、若い人に限らず恋愛体質のある人とよく一晩中話してこっちの言い分も聞いてもらったりしてましたが、普段はあまりしないですね。むしろ文化的に、「恋愛に興味を持たなくちゃいけない」という抑圧が少なくなってると感じることはあります。たとえば『電波男』という本をお書きになった本田透さんは「オタクで何が悪い」、「バーチャルの方が魅力的だ」みたいなことを十年前から言っていて話題になりましたが、そういった考え方もいまや若いオタクが屈託なく言えるようになってる気はします。<リア充>なんて言葉がある一方で、「現実の女なんて必要ないんだ」って語ることが大してめずらしくもないし、それを表明するのに勇気もいらない感じはある。AVも見たことないなんていう大学生も普通にいるし。
――数あるライフスタイルのうちの一つになっているという感じでしょうか。
切通 だから大分生きやすくなっているのは感じるけれど、もうちょっと「モガけよ」みたいな感じもありますよね。つまり恥じらいです。
――オタクであることに対する恥じらい?
切通 僕も若い頃は、現実には自分は男としては無能力者なんだって恥じらいを持ちながらオタク的世界にのめりこんでた気がするんですよ。その恥じらいを失っちゃったらオタク的世界ってすごいつまらない気がするんです。なんの欠落も罪悪感もなく、美少女ゲームで5人も6人も女の子と付き合って満足してるんだとしたら、それは世の中に良くある一過性の消費物に過ぎない。でも実際には、どんなに満足しても、ゲームが終われば消えてしまうってことをあえて主題にしたりする作品が生まれますよね。泣きゲーの『AIR』なんかも、そういうゲームをやってる自分の喪失感がゲームをやること自体に織り込まれてるから、いつまでも心に残ると思うんですよ。『エヴァンゲリオン』もそうだったけど「こんなアニメに浸りきってていいのか」っていうような問題提起や批評性が作品内に込められてた。萌え一色でひたすら快楽に興じるというのとは違った。そればかりだと面白くないですから。(つづく)
以上、“コイトゥス再考” より引用。

