私の中の見えない炎

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国際派と大河ドラマ・島田陽子(1)

 1994年に放送されたNHK大河ドラマ花の乱』(1994)。室町時代を舞台に応仁の乱を描いた異色作で、幼い筆者はこの作品を面白く見ていたのだが、放送直前に出演者の島田陽子が降板するアクシデントがあった。四半世紀を経たいま、改めてこの問題に触れてみたい。

 1970年代に映画『砂の器』(1974)や『犬神家の一族』(1976)、テレビ『白い巨塔』(1978)といった話題作に出演した島田陽子は、ドラマ『SHŌGUN』(1980)により国際派と目される。海外の情報が少なく憧憬の強かった時代にアメリカ人俳優と共演する島田は、その長身や美しさも相まって鮮烈な印象を与えたことだろう。しかし『花の乱』前後から島田は内田裕也との不倫や無免許運転、借金問題などマスコミの餌食にされていた。80年代までは主役級の仕事も多かったけれども、四十路を迎えた時期の大河ドラマ出演は浮上のチャンスでもあった。

 『花の乱』の脚本・市川森一とメイン演出・村上佑二は、島田と過去に協働している。島田は過去に市川 × 村上コンビが手がけた大河ドラマ山河燃ゆ』(1984)に出演したほか、市川脚本『黄金の日日』(1978)や『夢の指環』(1985)、村上演出『ビゴーを知っていますか』(1982)などにも登場しており、筆者個人としては後追いで見た『夢の指環』の主演が記憶に残る。『花の乱』では主人公と生き別れた双子で盲目の妹という重要な役どころで、常連の島田のために設定された人物ではないかと想像された。

 ガイド本『NHK大河ドラマストーリー 花の乱』(NHK出版)には衣装をまとった島田のインタビューが掲載されている。また「スタジオ収録が、今月下旬から始まる」という新聞記事にはまだ島田の名がある(「読売新聞」1994年1月12日)。収録まで1か月を切った段階での降板を受けて、代役は檀ふみが務めた。

 

当初、島田陽子が演じるはずだったが、米国の映画に出演したいと辞退を申し入れたことから、代役に。

「突然のことで、とにかく大変でした。それに江戸時代以前の時代劇は初めてなので、言葉遣いに苦労しました」と、檀は第十一話(十二日放送)の収録を終えたところ。

 目が見えない役だけに「目と目を通じてドラマを作っていくところが、今回の場合はできない。どう演じてゆくか、が課題。そこで、声を聞いて反応してゆくようにしようか、と」。体当たりの演技が続く」(「朝日新聞」1994年6月10日)

 

 島田がアメリカ映画を優先したことで、『花の乱』の現場や関係者が大きな迷惑を被ったことは想像に難くない。所属事務所だったアランピクチャーズの鈴木裕子代表(当時)は島田を非難している。

 

本当に、心外です。やっと取ってきたNHKの仕事だったのに…。知らないところで映画の話は進んでるし、事務所の移籍話はあるし、あまりにも身勝手じゃありませんか」(「週刊文春」1994年6月2日号)

 

 島田は「噂の真相」1997年10月号などで反論した。

 

これまでの彼女(引用者注:島田)には信頼すべきスタッフがいなかったということ。いやそれどころか、むしろ周囲から食い物にされ続けてきた面も少なくない。

 大河ドラマの降板は、ハリウッド映画とのバッティングが原因で、きっかけはスタッフの調整ミス。が、そのスタッフはその後「週刊文春」に彼女の悪評をタレ込み、高額謝礼を受け取って逃げた」(「噂の真相」)

 

 筆者としては、島田の『花の乱』起用は市川や村上との過去の仕事の積み重ねによって培われた信頼ゆえだと推測しているので「やっと取ってきたNHKの仕事」という事務所代表の言葉に不審さを感じる。少なくともこのケースに関しては島田側の主張が正しいのではなかろうか。

 しかし、だとするといくらスタッフのミスでバッティングしたとはいえ、何故に島田が大河ドラマよりもアメリカ映画を優先したのかという疑問が生じる。アメリカ映画をキャンセルすれば高額の違約金が発生していた可能性もあるが…。(つづく