日光で若い女性の扼殺死体が発見された。刑事たち(笠智衆、根上淳、殿山泰司)はダニエル修道士(ベルナール・ヴァーレ)をマークし、新聞記者(田宮二郎)も熱心に追跡するが、ダニエルは突如帰国してしまう。
未解決のBOACスチュワーデス殺人事件を映画化した『殺されたスチュワーデス 白か黒か』(1959)は、事件は神父の仕業だと断定して描いた意欲作。当初の「神と愛欲」というタイトルは変更され、制作中も公開後も妨害に遭い、配給も東宝に断られて大映になった(台本には配給:東宝の文字の上に紙が貼られて大映になっているという)。その後は真相部分をカットした版が流通していた。
1月に渋谷で原作・脚本・監督の猪俣勝人の特集上映が行われて、完全版がリバイバル公開された。上映後に、猪俣に師事した脚本家・丸山昇一氏のトークもあった。聞き手は『異端の映画史 新東宝の世界』(洋泉社)などの下村健氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。)。
【『白か黒か』(1)】
こんな大変なとき(コロナ禍)にこんなにたくさん、ありがとうございます。それとこの企画を進めてくださったシネマヴェーラのみなさん、下村さんのご努力に感謝します。
師匠とぼくは言ってるんですけれども、猪俣さんがぼくを弟子と思ってたかどうかは(笑)。(『白か黒か』が)できてから63年目ですか。みなさんもびっくりされたと思うんですけど、ずっと話が進行してきて、突然真相の解明になると別の映画になってしまう。あまり上手な構成の仕方じゃないんですけど、武骨なやり方。真実をつきつめていって、真実はこうだと思ったらぼやかさない。真正面から逃げないということが劇でドラマだ、ぼくは教えられてたんですが、実際にこうやって証明した。普通にメジャーな会社は辞退するでしょうし、誰か監督に依頼してもちょっと無理じゃないのってなるんでしょうが、猪俣さんは最初から自分で監督もやると意志を固めたと。ずっと「逃げるな」と言ってました。描こうと思ったことは妥協しない。猪俣さんはずっと娯楽映画の脚本をやってるんですが、会社側の言い分とかいろんな情勢を考えて妥協しなきゃいけないのが厭で、脚本というのは独立してなきゃいけない。シナリオが最初にあって、できればオリジナルで、映画を引っ張ってかなきゃいけないんだと。後半の突っ走っちゃうところは、ここまでやるか(笑)。ぼくは多分、学生のころに、日大の芸術学部で週1回映画を見る講座がありまして、そこで見たんじゃないかな。
ある事実があって、回想を挟んだり、新聞記者や警察や犯罪に遭った人とか多視点で、どこに気持ちを入れていいのか判らないつくりになってる。シナリオとしては不完全で絞り込んだほうがいいんじゃないのと思ったら、後半はああなって、猪俣さんは計算して引っ張ってる。演出することを含んだつくりになってる。画面も無駄がなくて端正ですね。色気も素っ気もないけど、訴えたいことをそのまま出してる。
半分は困ったふうに言いますけど、この映画の通り固い人なんですね(笑)。でも固い中に燃えるもの、熱いものがある。私が出会ったときは60近いときで、そこから10年間おつき合いさせていただいた。いま思い返しても、先生の前では何を言っていいのか判らないくらい怖い人でしたね。ただ怖いだけでなくて神経も行き届いて、赤い血が流れてるというか。ものをつくっていくなら、姿勢をちゃんとしなきゃダメなんだと。全然守れなかった不肖の弟子だけど(笑)そういうのは『白か黒か』に出てますね。
「神と愛欲」、まんまじゃない?(笑)『白か黒か』もまんまですけどね。ものをつくる人間というのは、半分以上は思い込みで生きてますから、このタイトルでとなったら思ったらこのタイトルでいかないとダメなんですよ。映画をやってるといろんな人が介在してきて。オリジナルだったら第1稿自由にタイトルを考えていいわけだから脚本家はシーンのここでタイトルを入れようとか、10シーンくらい過ぎてタイトルを忘れたころにさらっと出すとか、ひとりでのけぞりながら。愉しみは少ないですから。書いてる最中は苦しみだけですから。BGMも自分の中でつくったりして、いろんなものをフィルムに収斂させるようにしてやってく。さらに監督もやって、お金を出して製作もやるぞとなるともっと思い込みは激しくなる。だから「神と愛欲」だ! 相手が永田(永田雅一)さんなら、なかなか強く出られませんけど。結局、大映も配給はするけど製作は勘弁してくれと。
猪俣さんは自分の作品についてはあんまり語らない。脚本家も小説家も大概は、自分のことを慕ってくれる人に偉そうに言うんですよ。あそこはああいう意図でああなったんだよみたいに。でも猪俣さんはたくさん作品があるのに語らなかったんですけど、ぽそっと何かの拍子に『白か黒か』をつくってる最中に妨害を受けたと。日光の撮影に行く途中で山の上から石が落ちて来たり、油をまかれたり。(つづく)