昨年亡くなった劇作家の別役実が2001年に不登校や家族について語ったインタビューを引用したい。90年代から2000年代にかけては不登校が社会問題として取り上げられることの多い時代だった。
インタビューはわりあい平易な内容で、見る者を惑わせるような作風の別役が「失敗したときは1カ月ぐらい落ち込む」「劇作家は直に反応が伝わる場に自分を置かないと、独りよがりになって」などと真っ当な話をしているのはちょっと面白い。
今回は劇作家の別役実さんにお話を伺った。別役さんには劇作家として感じておられることはもちろん、教育・不登校・親のあり方についてどう捉えられているなどを伺った。別役さんは、現代社会が普遍性より独自性を求める社会へと軌道修正をはじめている、と語った。
――不条理劇を書いたのはいつごろですか?
1960年代サミュエル・ベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』が日本で上演され、新しい劇作家はみんなショックを受けました。当時は、人間の行動は合理的で、人間自体が論理的に解読できる存在だと位置づける「リアリズム演劇」が近代演劇の主流でした。不条理劇はこの「解読できる人間」に対するアンチテーゼとして、生まれたのです。不条理劇では人間とは得体の知れない生命であって、解読はできないものと位置づけられます。この解読できない部分が人間にとってもっとも豊かな部分だと思います。僕も『ゴドーを待ちながら』にはショックを受けて、もろに影響を受けて『象』という不条理の劇を書きました。
――劇作家としてどういうとき手応えを感じますか?
時代は常に動いていきます。時代がどう変わったかは、あえて表現することではありませんが、演劇自体が時代の変化に順応していないと観客は見てくれません。ただ、役者の感性は時代とともに変化するので、劇作家は役者の感性に対して素直になれば、結果的に時代にのっていけます。どうしても役者の感性とズレた脚本だと役者が自分のセリフにすることができません。役者の声で、自分が時代にのった脚本を書けているのかがわかります。さらに公演で観客を見れば、皮膚から手応えが伝わってきます。それが面白さでもありますが、失敗したときは1カ月ぐらい落ち込むこともあります。ただ、劇作家は直に反応が伝わる場に自分を置かないと、独りよがりになって、ズレていくと思います。
視点をどこに置くか
――劇作家にはなにが必要なのでしょうか?
表現することにおいては視点が重要です。エッセイの『虫づくし』(ハヤカワ文庫)や『日々の暮し方』(白水社)はウソを書いています。書くときには「ウソをつくよ」と自分に言い聞かせて意識をひっくり返すと、虚構の自分がすらっとウソをつきます。おそらく自然な意識でいると、すらっとウソは書けません。すらっとウソをつける状態だと、意識がひっくり返っているので、先入観にとらわれず、物事が多面的に見えるのです。普通人の考えつかない見方と、ある自由さを勝ち取れるのです。
脚本を書くときは客観的で神のように人間を観察する視点と、自分の内面を探るような人間自身としての視点が必要になります。僕の演劇では、人間関係を神の視点と人間自身の視点の両方から映します。刻々と変わるこの「関係」をどの視点から見ていくのか、その視点からどれぐらい正確に見ているのかが今日の劇作家にとって一番重要なことだと思います。(つづく)
「不登校新聞」2001年12月1日号(87号)より引用。