私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

別役実「プロセニアムアーチへの回帰」(1971) (2)

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 その小さな一本の木と同様、そこに登場するものも、「生身の役者」であれ、劇世界の規定する特定の「登場人物」であれ、どちらでもよい。あくまでも、それの対応しようとしているものが無限の、そして無性格な空間である限り、それは自由なのである。或いは、ベケット空間に於ては、それを「役者」であり「登場人物」であるべく、同時的に肯定するゆとりを持っている、と言う事だろうか。もっとも、それらを含む生活空間は、近代劇空間に於ける生活空間がその三方の壁が規定する性格づけられた空間に対応するように、「無限の無性格な空間」に対応しているのではない。その対応しようとしているものが「無限の、そして無性格な空間」である限り、それはあくまでも「対応しようとしている」に過ぎないからである。従ってそれは、永遠に過渡的であり「相殺されて零」と言う決着は、遂にやってこないのである。

 この永遠に過渡的に「対応しようとしているに過ぎない」と言う不安定な状態が、必然的に言語を生む。近代劇空間に於ける科白の言語作用と、ベケット空間に於ける科白の言語作用が決定的に違うのは、このせいである。近代劇空間に於ける言語は、限定された空間に於ける「登場人物」の存在理由を論理化すべく作用し、一方ベケット空間に於ける言語は、その無限定な空間に於ける「役者」であり「登場人物」であるものの存在の事実を確認するべく作用する。近代劇空間に於ける科白がその「言葉の意味」に於て重要なのであるとすれば、ベケット空間に於ては「それを言っている事の意味」が重要なのである。つまり観客は、近代劇に対しては「何を言っているか」を聞こうとしなければならないのであり、ベケットの演劇に対しては「何故言っているか」を聞こうとしなければいけないのである。更に言えば、近代劇空間に於ける科白は解答される事を予定して他へ向って放たれるのであり、ベケット空間に於ては、先ず放っておいて自己との距離を確かめるのである。言えば、近代劇空間に於ける言語は機能的であり、ベケット空間に於ける言語は物質的である。近代劇空間に於ける言語は、あらかじめあるとされたフォルムを論理化すべく作用し、ベケット空間に於ける言語は、まさしく、そこに新たなフォルムを構築すべく作用するのである。

 従って、言語活動の画するフォルムの面のみで見ると、これは明らかにベケット空間で通用する言語作用の方が安定している。プロセニアムアーチも何もない円型舞台で、周囲を観客にとりまかせてみる。そこで近代劇空間に通用する言語と、ベケット空間に通用する言語をくらべあわせてみればわかる。ベケット空間で通用する言語は、そこで確実に一つのフォルムを構築してゆくのがわかるだろう。

 そこでこう言う事が言えるのである。もし舞台空間と言うものを、その言語活動が画する空間と、視覚化された空間との分裂に於てとらえるとすれば、近代劇に於ては、視覚的な空間に於て安定し、言語的な空間に於て不安定なのであり、ベケット空間では、その逆なのである。或いは、近代劇に於ては、言語的な不安定が視覚的な安定へ至る過程を追うものなのであり、ベケット劇に於ては、言語的な安定が視覚的な不安定へ至る過程を追うのである。そしてもしそうなら、いささか強引に言ってしまうのだが、ベケット空間と言うものは、常に視覚的に不安定な事情を維持しつづけなければならないのだ。

 つまり、その言語活動が形成しつつある安定しているかに見えるフォルム、それが広大な砂漠の中の一粒の砂よりももっと小さな、局部的なものである、と言う苛立ちを、常に観客に与えつづけていなければならないのである。その安定ぶりが、無限の無性格なそして何よりも不安定な全体のための、一つの方便に過ぎないと言う事を、絶え間なく観客に説得しつづけなければならない。ベケット空間にあるプロセニアムアーチは、そのために必要なのだと、私は信ずるのである。プロセニアムアーチのない空間でベケットの演劇が行われるとすれば、観客は、その演劇空間が対応しようとしている全体を見ようとはしないだろう。舞台中央にある小さな一本の木と、それに寄りそうウラジミールとエストラゴンのみを、観客は全てだと思いこんでしまうからである。しかしもしそこにプロセニアムアーチがあれば、それは、その小さなフォルムを、そこに小さく固まろうとするものを、裏切るべく作用する筈である。ベケットも『ゴドーを待ちながら』を書く過程で、恐らくそのプロセニアムアーチの機能を意識しただろうと、私は考えるのである。

 舞台空間の力学的構造は、現在極めて複雑である。それは、我々の「日常空間」を構成しているものが複雑である如くに複雑なのである。日常空間と言うものが、部分と全体、虚構と現実、日常と非日常、正と負、それら対極的な概念とされていたものが、相互的に機能し、そのそれぞれの位置関係ではなく、それからそれへ至る法則性のみが重要である空間であるとすれば、舞台空間もまたそうでなければならないのであり、そのかぶさりあいの法則性を視覚化しなければならないのである。そして私に言わせれば、プロセニアムアーチの存在が、その計算の唯一のよりどころとなると思うのである。

 以上、『そよそよ族の叛乱』(三一書房)より引用。