私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

別役実「プロセニアムアーチへの回帰」(1971)(1)

f:id:namerukarada:20200611234453j:plain

 今年3月に逝去した別役実は、サミュエル・ベケット的な不条理演劇を日本で成立させた巨匠である。その別役が自らの理念について述べた1971年の文章を、追悼として以下に引用したい。

別役実 (1) 壊れた風景/象 (ハヤカワ演劇文庫 10)

別役実 (1) 壊れた風景/象 (ハヤカワ演劇文庫 10)

  • 作者:別役 実
  • 発売日: 2007/07/25
  • メディア: 文庫

 この戯曲集(引用者註:『そよそよ族の叛乱』〈三一書房〉)に収録した作品のうち『黄色いパラソルと黒いコウモリ傘』と『マクシミリアン博士の微笑』を除いて他は全て、プロセニアムアーチのある舞台を念頭において書いたものである(引用者註:「そよそよ族の叛乱」「獏」「黄色い日曜日」「街と飛行船」」)。最近何故か私の登場人物達は、プロセニアムアーチの彼方にある空間へ閉じこもろうとする。しかしもちろんそれは、近代劇特有の、閉鎖的な、そして幻想的な空間を目指しているのではないつもりである。私の芝居のために必要なものは、プロセニアムアーチの彼方にある荒涼たる裸舞台でなければならない。つまり劇世界が要請する如何なる状況設定もそこには必要ないのであり、その劇場が本来持っている空間力学に、いささかの修正をも加える必要がないと考えるのである。但し私は、舞台中央に一本の電信柱を置いたり、ポストを置いたり、テーブルと椅子を置いたりする。それは恐らく、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の舞台中央に設定された一本の木と、同様の機能を果たさなくてはならないものなのだろう。

 もしこう言う言い方が許されるなら、イプセンにより舞台の三方に壁を築かれて出発した近代劇特有の閉鎖的な、そして保護された空間は、ベケットの、この一本の木によって解放されたのである。近代劇の空間が、無限の空間の中から任意に必要に応じて選ばれたものであり、従ってその空間の性格があらかじめ必要に応じて修正されているのに対して、ベケットの空間は、無限を無限として一本の木に対応させているだけであるから、あくまで無修正であり、従って無性格である。しかもこの二つの舞台空間についてはその力学的な構造が実に根源的に違うのである。

 先ず極めて常識的に言える事は、近代劇空間の場合、その空間の機能を三方の壁から集中的に限定しようとしているから、そこにある役者の肉体を含めた生活空間の拡がりは、常に三方からの凝集力と相殺されて零になっていると言う事である。従って当然「そこに生身の役者が存在する」事のダイナミティーは稀薄になり、それは往々にして「登場人物の行為」のダイナミティーにすりかえられるのである。登場人物の行為のダイナミティーがそのまま演劇的感動に結びつかないと言う事は、暫く以前から言われていたことであるが、それはつまりその状況設定にリアリティがなかったせいではなく、こうした近代劇特有の空間構造によるものなのであり、そこに如何にアクチュアルな状況が設定されようとも、「舞台空間」と「役者の肉体を含む生活空間」が「相殺されて零」の関係にあらかじめ装置されてしまっているせいなのである。もちろん、演劇空間に於ける役者の肉体、もしくはそれを含む生活空間の拡がりは、常に何ものかと見合い、それと「相殺されて零」の関係におかれるものである。全てのものの存在とその拡がりは、それが何と対応しているかと言う事によって推測され得るものだからである。従って言えば近代劇空間の欠陥は、役者の肉体もしくはそれを含む生活空間に見合うものを、余りに小さく設定し過ぎている、と言う点である。近代劇に於けるプロセニアムアーチの機能は、こうした力学的な構造を持つ空間を、視覚化するために重要な役割を担ってきた。近代劇空間そのものに対する我々の猜疑心が強くなってきた時、それがプロセニアムアーチに対する猜疑心にすりかわっていったのも、あながち見当はずれの事とは思えない。

 しかし、私は考えるのであるが、近代劇空間を解放したのは、ベケットの発明した「砂漠の真中の一本の木」なのであって、この場合、プロセニアムアーチの存在は関係がない。と言うよりはむしろ、ベケットがこの「一本の木」によって近代劇空間を解放した時、プロセニアムアーチは新たな、そして重要な役割を果すべく、その機能を変えたのである。ともかく、ベケット空間の力学的構造とはどんなものだろうか。近代劇空間と言うものが、舞台上の三方の壁から集中的に空間の性格づけをするのに反して、ベケット空間では、中央にあるオブジェが遠心的に、極めて拡散的に、それを性格づけようとしている。この場合、その中央にあるのが、劇世界の中で解読された「砂漠の中の一本の木」であっても、裸舞台の中で解読された「紙と針金で作られた木らしく見えるオブジェ」でも、それはどちらでもかまわない。そのオブジェは、常に無限の、そして無性格な空間と対応しようとしているのであり、この場合重要なのは、それが無限の全体に対応する「一つの部分」であると言う事だけだ。

 その小さな一本の木は、身近なところから次第に周囲へ、その空間を性格づけるべく、拡がりはじめる。しかしもちろん、それをとりまく無限の、そして不毛な空間は、その存在理由と意味をかき消すべく、その小さなものを目指して一斉に襲来する。ベケット空間は常に、その拡がろうとするものと、それをかき消そうとするものとの、不安定なせめぎ合いの中にある。と言うより、もしかしたら、ベケット空間に於けるドラマと言うものが本来、そうしたものであるのかもしれない。つまり、ベケット空間に於いては次第に構築され、拡がりつつある生活空間が、それをとりまく無限の空間と、どう入り組み、それにどう侵蝕され、どう裏切られてゆくか、と言う点に、ドラマの本質が機能しているのである。つづく

 

 以上、『そよそよ族の叛乱』(三一書房)より引用。 

 

【関連記事】別役実 インタビュー(2001)(1)