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別役実 インタビュー(2004)・『千年の三人姉妹』(1)

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 アントン・チェーホフの没後100周年に、劇作家・別役実チェーホフの『三人姉妹』を翻案した『千年の三人姉妹』(2004)を発表した。音楽は東儀秀樹で、タイトルロールの三姉妹は別役夫人の楠侑子、三田和代、吉野佳子が演じている。

 情報誌「アートスフィア」に掲載された別役のインタビューを、追悼の意で以下に引用したい(可能な限り用字・用語は統一し、明らかな誤字は訂正した)。 

舞台を日本に移し変え 三人姉妹が千年の時を生きる

——チェーホフ没後100周年の年に、別役さんがチェーホフを題材に新作をお書きになる。ズバリどんな内容になるのでしょうか?

 

別役 実は藤原新平さんと20~30年も前から、いつかはチェーホフの『三人姉妹』をやりたいねっていう話がありましてね。二人で長年あたためていた材料ではあるんです。でも、どういう風にやろうかということについては、なかなか話がまとまらなかったんですね。『三人姉妹』は “こういう話です” と説明するのが難しい台本なんですよ。三人の姉妹がいて、モスクワに行きたいと憧れている話なんですけども、モスクワへ行くということがどういうことなのかわからないし、三人姉妹にとってのモスクワっていうものが何かって意味もはっきりとは言えない。ただ、原作でいちばん感動するのは、時代がかなりダイナミックに移動していく、その中でモスクワに帰りたいというひとつの願いだけを持っている三人の娘が、時代に対して非常に健気なたたずまいを見せている。時代の動きと三人の姉妹の健気であろうとする姿勢が、一番感動的なんだと僕らは考えたんですね。そこを使って、舞台を日本に移し変えてみようという案なんです。

 

——時代設定はいつなのですか?

 

別役 ヨーロッパの時代は、わりとダイナミックにかなり変転激しいわけですよ。ところが日本、とくに地方に住んでいる女性にとってはダイナミックではないだろうという感じがしまして。時代のダイナミティの捉え方というのがロシアと日本でかなり違うだろうということで、射程をバーンと千年に伸ばしました。平安京の王朝時代から今日まで、三人の姉妹が延々と都に帰ることに憧れながら生きている。射程を伸ばしたのが新しいところですね。現実にはありえないんですけども、日本には八百比丘尼(やおびくに)という伝説がありましてね。人魚を食べると800年生きるという伝説です。女性というものの執念ですか。命の長さみたいなものというのは、そういう形で保障している伝説もありますので、千年という射程をとったんです。

 

——ではラストには現代までくるんですね?

 

別役 そうです。それを同じ人物たちが生き続けてきたということでですね、直線的に貫いてるのは、都に帰りさえすれば何とかなるという形。執念ですね。それから原作のオーリガの最初と最後の台詞も使おうということにしています。千年の間にどんどん年をとって、最後はほとんど老婆になって、しかも生活もどんどん落ちぶれていきながら最後はやはり、「生きていきましょうよ」というメッセージに何らかを託せるようなシナリオを作りたいという感じ。なかなか説明しにくいんですけど、ざっと言うとそういう計画。

 

——別役さんというとベケットのイメージですが、チェーホフはもともとお好きだった?

 

別役 やはり近代作家の中で、チェーホフは唯一僕らの念頭にあった作家ですね。ゴーリキーとかその辺の近代の作家はいましたけども、その中で我々の感覚で取り上げられる、親近感が持てるのはチェーホフだけだった。でも、わかんない作家なんですよ、チェーホフっていうのは。好きな人はいっぱいいるんですね、チェーホフ・ファンはね。でも、チェーホフの良さについては、いろんな意見があって、バラバラなんです。そこを確かめたいってこともあるんですよ、ひとつはね。『三人姉妹』も、いざ台本にしようと思って読み始めると“芝居どころ”というのがないんですね。どこにあるのかわからない。得体の知れない作品でね、力が抜けるんですよ。芝居を作るっていうより、ある場を作っていくって感じなんですよ。場の環境を作っていって、構造的に、時代であったりそれぞれの人間の位置関係が確かめられていく。この辺の押さえ方が難しくて。僕らはつい芝居にしちゃおうという衝動にかられるんですが、そうするとチェーホフじゃなくなっちゃう。そういうのはだいぶ苦労しましたね。

 

——見せ場を作ろうとするとずれてしまう?

 

別役 見せ場というか、葛藤といいますか、ドラマ。いわゆる僕らが芝居と思っている芝居らしい芝居を作ろうとすると、失敗しちゃうのね。芝居にすると、出てくる人間そのものが、時代に対して意味を持っちゃう。チェーホフというのは、登場人物は時代に対して意味を持ってないんですよね。時代というものの構造の中に的確に埋め込まれている。的確に埋め込まれているからこそ、われわれ観客から見ると、時代にとっての意味に見えてくる。例えば次女のマーシャの恋にしても、彼女自身があの恋が成就すればどうなるかという意味での積極性はほとんどない。その辺のバランスが独特でね。近代でこういう芝居書いた人って珍しいでしょ。近代劇では、だいたい一人の人物が意味を持って歴史に参加しているという形で組み立ててるからね。チェーホフはそうではないと、おぼろげには思ってたんだけど、実際に書いてみると、なるほど違うという感じがしましたね。

 

——別役さんもあまりやったことがない。

 

別役 やったことないですね。不条理劇的なスタイルで、不条理劇的な空間のタッチでまとまるでしょうと思ったんですね。ところがそれではなかなか組み立てができない。どうしてもそこへあるひとつのストーリーであるとか、ドラマというのを入れたくなるわけですね。でもそうすると近代劇的になってしまう。これは今回やっててすごく勉強になりましたけどもね。僕が不条理劇書き始めてもう何十年か経ってるんですけども、にもかかわらず、いざとなると近代劇的な作り方に汚染されているというね。つづく 

以上「アートスフィア」2004年1~3月号より引用。

 

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