私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

高村薫 インタビュー(2002)・『晴子情歌』(2)

Q:『晴子情歌』は、高村作品初の、女性を主人公とした物語です。はじめて女性をじっくり描くときに感じた面白さ、難しさなどについてお話ししていただけますか?

 

A:女性を描くことに関しては、自分が女性ですから、そんなに抵抗はありませんでした。むしろ、どうして今まで書かなかったのかと言いますと、ミステリーや警察小説の枠組みの中では、刑事に付属している家族や女性のことはどうしてもつけ足しになってしまいます。つけ足しという形では女性は描けないから、あえて中途半端なことはやめたほうがいいと思っていました。逆に言うと、女性をまともに書こうとすると、余計なものを全部そぎ落としてもこれだけの分量になった、ということです。晴子はけっして変わった女性ではなく普通の女性です。それでもこれだけの分量になるのですから、歴史に名を残すような女性だったら、一体どれだけ枚数がいるんでしょうね。

 

Q:これまでとは作風のまったく異なる新作を出すことに怖さを感じましたか?

 

A:怖さはいつも感じています。今回も悩みまして、出版社の人と「高村薫という名前をやめてもいいね」と冗談で話していたんです。誰に頼まれたわけでもなく、誰も期待していたわけではない作品を出すなんて…、こんなバカなことをできるのは私ぐらいだという自信はあります(笑)。

 エンターテイメントの世界にはどんどん若い書き手の方が出てきますよね。若い人は新鮮な感性をお持ちだし、エネルギーもチャレンジ精神もある。そういう方々が活躍してくださったら、私自身はそこにいなくていいんじゃないか、という気がするんです。

 やはりある程度の年齢になると、その年齢で読みたい本というのがあります。私にとって、それは猟奇連続殺人ではない。今、時代小説は別として、私自身が一読者として枕元でゆっくり読めるような小説が非常に少ない。エンターテイメントも純文学も若い人向きになって、相当エネルギーがなければ読めなくなっています。そうした意味で、『晴子情歌』は、私が読みたいタイプの小説かも知れません。

 

Q:近いうちに、またミステリーを書かれる予定はありますか?

 

A:とりあえずは彰之(『晴子情歌』の晴子の息子)の物語を、あと1〜2作書こうと思っています。私は90年の暮れにデビューしたのですが、この12年の間に、世の中の事件の姿形がものすごく変わったような気がするんです。例えば、97年に神戸で起きた酒鬼薔薇事件。あのとき、私は「この現代に実際に起きる事件に自分はついていけない」と直感しました。あのような事件が極めて現代的であるとするなら、私には現代的なミステリーは書けないと思います。

 今は書き手である自分自身が、大げさな言い方をしますと「生きる意味」とか「どうやって死ぬか」といったことを、ひとりでコツコツ書きながらしばらく考えていたい気分です。

 

Q:本のタイトルに非常に情感があってすばらしく思えますが、タイトルをつけるときに何か秘密でもあるのですか?

 

A:秘密はないです。『晴子情歌』は、今年の2月にそろそろ脱稿する、というときになってもまだ決まってなかったんです。主人公の晴子の名前を使おうとは思っていたのですが、あれこれ考えて『晴子情歌』というタイトルにして、新潮社の方に見せたら「何だそれ?」という反応でした(笑)。とにかく他に思い浮かばないからそれで行こうと決まったのは、本が出るひと月前の4月くらいだったんです。

 私が自分でタイトルをつけるようになったのは『マークスの山』からです。デビュー作の『黄金を抱いて翔べ』はまったく違うタイトルだったのですが、とにかく派手なタイトルにしたほうがいいということで、日本推理サスペンス大賞の選考委員の方々がみなさんで考えてくださったと聞いています。『神の火』は新潮社の担当編集者である佐藤誠一郎さんという方がつけてくださいました。『リヴィエラを撃て』は、私が考えたのは「リヴィエラ」だけだったのですが、それだけでは何のことかわからないからと、これも新潮社の人がつけてくださいました。 

Q:主題を強く意識し、「読者へメッセージを発信する」という感覚で小説を書くこともありますか?

 

A:ないです。主題やメッセージは、小説には無用だと思います。小説にあるのは、読者がその小説の言葉から受け取る「言葉の快楽」だけだと思っています。私は、今回の小説(『晴子情歌』)では、物語のうねりはないけれども、その代わり、今の私の能力なりに言葉のエロスをつくりたかったんです。ストーリーは一度読むとわかってしまうから二度と読まない。だけど、エロスは何度読んでも感じられる。そういうものをつくりたい、というのが、私自身の野望でもあったんです。

 

Q:高村さんが影響を受けた作家、好んで読む作家などについてお話ししていただけますか?

 

A:最近はあまりいませんね。勤めていたとき、新作が出たら自動的に買っていたのは、中上健次です。ミステリーというのはまったく読んでいなくて、なんせシャーロック・ホームズを読んだことがないんですから。私が読んできたのはごく普通の小説ばかりで、賞をいただいたとき、はじめて選考委員の方々の本を読んで「世の中にこんな小説があったんだ」ってびっくりしたんです。私にとって読んでいて当たり前という感覚だったのは、北村透谷とか大江健三郎高橋和巳大岡昇平辻邦生…、古井由吉さんはだいぶ新しいですね。もちろん三島由紀夫も読んでいました。

 中上健次の他に言葉の快楽を感じる作家ですか? そうですね、不思議な言葉ですけど、大庭みな子さんは好きですね。『夏の花』などの原民喜、『月山』などの森敦、椎名麟三野間宏…、わりと普通でしょ?

以上、BOOKアサヒコムより引用。(つづく