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立花隆はJ・J氏になったか・『ぼくはこんな本を読んできた』

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 「正論」2017年6月号にて、小浜逸郎が「シリーズ日本虚人列伝」と題して立花隆批判を寄稿している。マスコミで立花が非難されるのはもはや日常茶飯事になってしまったが、ひところの彼は “知の巨人” などともてはやされたものであった。個人的感傷も含めて、その時世を振り返ってみたい。

 立花隆の著作においてひとつのターニングポイントは、1995年12月刊行の『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫)であろう。田中角栄やら脳死問題やらを追う硬派のジャーナリストで、論争家というイメージだった立花。その彼が自身の高校時代に始まる膨大な読書歴を回想したインタビューや日々の読書法、近年の書評などをまとめた比較的平易な本を出した。立花の知名度に加えて、当時は『「超」勉強法』(講談社)などの勉強本や『知の技法』(東京大学出版会)が売れてみなで知性を高めていこうという風潮があり、時流に乗る形で『こんな本を読んできた』はベストセラーとなった。その10年以上前に立花は取材・執筆のノウハウについて解説した『知のソフトウェア』(講談社現代新書)を発表していたけれども、喋り口調の記事も多い『こんな本を読んできた』のほうが読者に訴求した。 

 にわかに湧き起こった立花人気を受けて、翌1996年11月には「文藝春秋」臨時増刊号という形式で『立花隆のすべて』が刊行された(後に単行本化)。個人史を振り返ったロングインタビューやデータ整理法に加えて、仕事場の机の上や書棚を撮ったグラビア、書店に行ったり料理したりする姿を追ったルポ記事も。驚いたことに、フランスでワインを嗜むカラーページ「ブルゴーニュ立花隆」や家族通信「たちばなしんぶん」、学生時代に書いた稚拙な恋愛小説まで…。

 この2冊を思い返すと、知名度は高いとは言えさほどの経済効果が見込めなかった立花を “知の巨人” と称してスターに仕立てようという、文藝春秋の目論みが感じられる。当時ミーハーな中学生だった筆者は簡単に乗せられ、立花に敬意を抱いた。

 ここまでは立花のお膝元とも言える版元の所業であったが「アエラ」1997年1月27日号(朝日新聞社)にも、何と「立花隆になりたい」という記事が掲載される。立花をリスペクトする一般男性数名を取材した内容だったけれども、彼らは一様に立花の読書歴や知性への賛嘆の思いを強調して語っており、角栄脳死といった “本業” に感銘を受けたわけでもないらしい。 

 90年代の立花ブームは、その関心の幅広さや読書生活にまつわるものであった。『ぼくはこんな本を読んできた』という書名に想起されるのは『ぼくは散歩と雑学がすき』(ちくま文庫)や『こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた』(同)などの、故・植草甚一である。いや、『こんな本を読んできた』は明らかに植草の路線を模倣したものであろう。自らを “J・J氏” と三人称で呼び、読書や映画、レコード蒐集などをつづったエッセイで風流人として知られた植草は、その洒脱な知的生活が1960〜70年代の読者のあこがれを誘った。小林信彦は「やがてくる〈生活スタイルの時代〉の先駆だった」と植草を評したけれども(『〈超〉読書法』〈文春文庫〉)立花ブームもその “生活スタイル” に終始するものであったと言えよう。 植草より立花のほうが勉強法のハウツー寄りであったが。

 やがて2000年前後から多数の立花批判が寄せられるようになり、長らく人気を誇った植草とは対照的に、立花ブームは4、5年であっけなく終わりを告げる。「私の仕事が、一定の専門分野に収斂しないで、間口が広がる一方なので、ますます始末が悪い」などと本人は誇らしげに?書いていたけれども(『ぼくはこんな本を読んできた』)文系から理系まで節操なく関心分野を広げた結果、皮肉にも各々の専門家から事実誤認や理解の浅さを指弾されるようになってしまったのだった。ちなみにこの時代には知性を高めるより自己啓発が流行り始めるのだが、立花の評価急落は世相の移り変わりを象徴していたようにも思える。

 「私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている」などといったかつては肯定的に受け取られた言動も(佐高信『現代を読む』〈岩波新書〉のように、このプロレス差別発言に賛同する向きもあった)非難の対象となった。

 無知な筆者には専門的なことの正誤はもちろん判らないけれども『こんな本を読んできた』を読み返すと、本にあまり愛着を持たず情報源としてのみ活用しようとする姿勢には疑問を感じなくもない。また「BBC制作のシェイクスピア、あれなんか大変な傑作です」との記述もあったが、BBC版は実際にいくつか見てみると凡庸でつまらないものでシェイクスピアを殺しているとしか思えず、福田恆存の翻案(新潮文庫)や蜷川幸雄演出の舞台のほうが断然優れているように感じられた。目が覚めた気もした。

 90年代に何度も蔵書を公開していたくせに、2013年に刊行された『立花隆の書棚』(文藝春秋)には「書棚の全容をバチバチ撮られるというのは、あまり気持ちがいいものではない。自分の貧弱な頭の中を覗かれているような気がする」などと立花は心にもないことを書いている。ただフォローするわけではないけれども、改めて読書史を振り返った『書棚』や2014年の『四次元時計は狂わない 21世紀文明の逆説』(文春新書)などを読むと、この “J・J氏になり損ねた男” に依然として奇妙な魅力を感じてしまうのも事実で。 

 

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