私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

年始の日記たち

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 年末年始の動静というのは、時が流れても何となく覚えていたりする。そこで?手元にある本には年始に何をしたと書かれているか、読み返してみた。

 三浦綾子『北国日記』(集英社文庫)には一九八二年元旦に年賀状が七百枚届いたとある。年賀状文化の華やかなりしころ。

 

七十歳を超えた畑中愛子牧師の賀状。

「大晦日と元旦は、いのちの電話の前で過ごします」

 大晦日と元旦は、誰しも自分のために使いたい日だ。けれども畑中先生は、悩める人々のために、電話の前で過ごされるのだ。何と尊い晦日であり、元旦であろう。あの先生の今までの来し方を象徴するような賀状である

 

 いま読むと書き手のピュアさに赤面してしまう。 

 野坂昭如『妄想老人日記』(中公文庫)の「一九九九年一月」の項、元旦にはあまり正月らしい記述はないようだが…。

 

まだ満より数えに実感がある、どういう七十男になりゃいいのか。男根弄ぶと勃起する。手鏡にしゃっ面を写し、これが七十歳か。女二人、「オンステージ」のビデオを観ている。われ押し入れに隠していた罐ビールを飲む。昭和ヒトケタの戦中、戦争直後だけを考えていたが、この歳になってかえりみれば、ずい分幸せな世代だ

 

 年齢・世代に思いを致すのは正月だからか…とも思ったけれども、他の月でも年齢に相応しい男の生き方は?、などと書いている。

 野坂は元旦からずっと飲んでいる。以下は一月三日。

 

飲んでは睡り、起きて罐ビール片手にヒトケタ覚え書き、以後、四日、五日ほとんど固形物を摂らず、元旦から着のみ着のまま。半ば白い鬚ボウボウ、やつれた顔を鏡に写し、七十歳を納得。在宅ホームレスというべし。せめて栄養をと、持込んだ温泉卵、牛乳、バナナ、みな腐っている」 

 実相寺昭雄監督のエッセイ『ナメてかかれ!』(風塵社)に収録された「新春日記」。元旦の項はないけれども、別の日に一年の計が書かれている(一九九一年一月九日)。

 

正月放ったらかしの車を動かしガソリンを入れに行き、ついでに多摩プラザの東急に足をのばす。ケロケロケロッピのクッションを衝動買いし、“いいちこ”を呑みつつ、一年の計を立てた、計というより、今年のねがいだ。

 1.楽して金が儲かりますように。

 2.猥褻な女が見つかりますように。

 3.家内安全、無事健康。

 4.多少名誉のある仕事にありつけること。

 5.元木をとった巨人が低迷し、セナが敗れ、ホンダのV12が失速すること。(シャシ ーのアンバランスがひどくなるように)

 6.いま書いている小説が売れますように。(注:書き下ろしで『星屑の海』という、 ウルトラマン後十年を経た円谷の仲間を中心とした話だ)

 7.関西の私鉄に、画期的な新車が登場すること。“楽”につぐ、近鉄の2階建て特急車 に期待。

 8.音楽との縁が切れないこと。

 9.小田急で座れますように。(注:これは夢物語か。下品な電車奴!)

 10.ショスタコーヴィチを、演奏会で数多く聞けますように。

 ここまで書いたら、ウニになった。

 

 この後の一月十二日に「ああ、元旦から酒が切れない」とあり、十四日に「ついに、酒がぬけた」。 

 蓮實重彦『映画狂人シネマ事典』(河出書房新社)の「はすみ庵日記」は、やはり蓮實らしくキザだが、一日数行だけなのに面白く読める。一九八五年の日記にあまり正月らしさはない。

 

一月二日 山田宏一氏と、森卓也氏提供のヒッチコック『十七号』をビデオで見て、呆然とする。同じカセットに収録されていた全盛期の『トムとジェリー』に笑い転げる。続いてキューカー『アダム氏とマダム』。」 

 『争議あり 脚本家荒井晴彦 全映画論集』(青土社)には、同じく一九九一年正月の日記(一月一日)がある。

 

雑煮を食べて谷保天満宮へ初詣、そのあと小金井の親の家へ。動いている画はこれが最初で最後かもしれないとビデオカメラを娘から親父へパン。フツーのことをやるようになったんだなと弟にからかわれる。おそなえを買って帰る

 

 この時代は、ビデオカメラで家族行事を撮るのが流行っていた。つづいて翌一九九二年一月二日。

 

「武者小路房子の場合」を読む。女って時代に関係ないのだろうか。

 

 この日はこれだけ。

 椎名誠『馬追い旅日記』(集英社文庫)によると、一九九四年元旦は伊豆修繕寺近くの山奥にてキャンプ。大晦日の夜から仲間と飲み、おもむろに起きて、元旦もビールを飲んでから帰宅。優雅で、紹介した中ではいちばんうらやましい年始という気もする。

 この6冊を久々にめくってみると、内容をほとんど忘れていた。自分の記憶力の貧弱さに慄然となる。

 高見順『文壇日記』(岩波書店)や武田百合子富士日記』(中公文庫)もどっかにあったと思うけれども、所在不明。中学生くらいのころは部屋が本であふれる光景を見かけるとインテリっぽく感じてあこがれたものだが、いまは狭い家に本が多くて不便で仕方がない(しかもインテリでも何でもない)。嗚呼…。