半年くらい前、岡田斗司夫の女性遍歴が話題をまき、かつて似たような事態を引き起こした人物として、脚本家のジェームス三木の名が引き合いに出された。大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987)、『八代将軍吉宗』(1995)などの脚本を手がけてヒットさせた巨匠であり、インタビューなどで軽妙な(恥知らずな?)恋愛論をとうとうと述べる三木の一大スキャンダル…。
1980年代、ジェームス三木はヒットメーカーとして絶頂にいた。まず、脚本を手がけた朝の連続テレビ小説『澪つくし』(1985)が大ヒット。つづいて『独眼竜政宗』は39.7パーセントという大河ドラマ史上1位の平均視聴率をあげる。もとより売れっ子作家だった三木だが、朝ドラと大河ドラマのたてつづけの成功により、業界内だけでなく一般の知名度も上昇。この時期から講演やテレビ出演の依頼が多数舞い込むようになったという。しかし、わが世の春を謳歌する彼に、思わぬ地獄が待ち受けていた。1992年、当時の夫人・山下典子が『仮面夫婦 私が夫と別れる理由』(祥伝社)を出版。翌1993年に、三木が名誉毀損で妻を告訴する騒ぎとなった。
この『仮面夫婦』には、妻の山下典子とジェームス三木の出会いから結婚生活、怪文書によって冷戦状態に至るまでがつづられている。
19歳のとき、まだ歌手だった三木と友人と3人で飲んだ山下は「三木の話術に笑い転げ」てその「虜になってしま」った。老境に達した近年も、マツコ・デラックスのバラエティ番組に出ては愉快な語り口で笑わせる三木だが、彼のトークは若いころから冴えていたのである。
結婚後、三木の荷物を整理していた山下は「春の歩み」と題された1冊のノートを発見する。それは89人もの女性関係を詳細につづった記録だった。
「女性の名前は実名で、職業、年齢、そして容姿と性器にはABCでランクづけをしてあり、ジェームス三木自身が体験した、彼女たちの性器の感想まで、克明に書き込んであったのです。
それだけでもショックでしたが、なんと七十六番目に私の名が書かれているのを見て愕然としました。私は、そんなひどいノートを見てしまった後悔と恥ずかしさで、夫に直接抗議することもできず、夫にすがる思いで八十九人目の次の行に、「もう浮気は止めてください。お父ちゃまになるのでしょう? のり子は貴方を信じております」と、朱書きをしておくのがせいいっぱいでした。じつはそのとき、私は長女を妊娠していたのでした。夫の人格を疑いながらも、夫を愛していた私は別れることもできず、ずるずると結婚生活を続けてしまったのです」(『仮面夫婦 私が夫と別れる理由』)
しかしその約10年後、山下がまた「春の歩み」のノートを開くと173名(!)に激増していたのだった(1993年に出された続編『夫婦戦争 妻が血を流すとき』〈現代書林〉には「春の歩み」がより詳しく写真つきで紹介されている)。
スキャンダルが発覚する以前、ジェームス三木と子息の俳優・山下規介とが『親子SEX快談』(マガジンハウス)にてセックスを語り合ったことがある。『親子SEX快談』は、田原総一朗と田原敦子、大林宣彦と大林千茱萸、赤塚不二夫と赤塚りえ子などの有名人親子の性談集であり、よくこんな本が出たなと驚き呆れる奇書だけれども、やはり印象的なのは三木親子の対話であろう。
「僕から見てるとおまえ、どうして1人の彼女でがまんしてるんだろう、もったいないなって思うよ」という三木の発言で開幕する対談では、三木の「僕はおまえぐらいのころは何人も彼女がいたね、みんなプレーだったけど」、規介の「(少年時代に母の山下典子にコンドーム1ダースをもらい)ただありがたいと思っていただきました」といった珍言が飛び出す。極めつけは、
「ジェームス (…)おまえは恋愛感情を持たないとセックスができないのかな。
規介 うん、できない。
ジェームス (驚いて)ふーん。そりゃ僕と大差だね(…)じゃあ女性とモノとして交わることができないわけだ」
『仮面夫婦』によれば、三木には乱脈な女性関係だけでなく家庭内暴力という問題もあった。三木の友人男性と山下が会った際は「アイロンで私をなぐりつけるようなすさまじい暴力を振ったこともあります」。また不機嫌なときは、長男の規介や長女を激しく折檻したらしい。それでも、40代くらいまでは「夫の才能にべた惚れの部分がありました」ゆえ、どうにか夫婦生活を維持してこられたようである。
三木が脳腫瘍で入院したときは、本人も妻の山下も死を覚悟した。結局、手術は成功。
「結局三ヶ月入院したのですが、お見舞いのお客さまが来ると躁状態になって嬉しがるのです。夫はとてもサービス精神旺盛な人ですから、とりわけ女性のお客さまが来ると、気をつかっていろいろなことを言って楽しませて帰すのです」(『仮面夫婦』)
「とにかくリップサービスするものですから、お客さまが帰ると、どっとくたびれはてる」ので、あなたは病人なのだと山下がたしなめると、今度は「おまえが相手をすればいいんだ」と怒鳴り始める。
過剰なまでの外面のよさ、裏腹に妻を相手にいばる言動、家庭内暴力…。一連のジェームス三木の性格的要素は、西舘好子『修羅の棲む家』(はまの出版)とその増補改訂版『表裏井上ひさし協奏曲』(牧野出版)に描かれた故・井上ひさしにも当てはまる。西舘はリベラルの仮面をかぶった井上にも古い日本の男に過ぎない面があったと喝破しているが、一見温厚そうに見える三木にも、1歳違いで同年代の井上と通底するところがあるのかもしれない(余談だが、喜劇の趣向が強いのもふたりに共通している)。
あるとき、友人たちとヨーロッパ旅行に行った山下は、同行したフジテレビのHプロデューサーの「アクシデントの解決能力」に感嘆したという。その「物事をプラス思考に持ってゆく」手腕について「Hさんみたいに、トラブルをいい方向に解決する人になってほしい」と息子たちに話すと、三木は怒り出した。
後年のエッセイ『ジェームス三木のドラマと人生』(社会評論社)やインタビューにおいて、三木はドラマの主役たり得るのは「トラブル解決能力」を持っている人物で、トラブルの経験が人間を大きくするのだと幾度も説く。実に説得力のある論だが、もしかしてそれを言い始めたきっかけは、妻のH氏への賛嘆の言葉だったのだろうか。だとすると、ちょっと微笑ましい…。
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