私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

少女屹立・今江祥智 宇野亜喜良『あのこ』

 先月、愛知県の刈谷市美術館にて開催中の “宇野亜喜良展 本にみる少女譚” を見る機会があった。イラストレーター・宇野亜喜良の初期作品から昨年の仕事まで、点数は多くないがその精力的な創作が展示されている。

  筆者が、いまも思い出すのは今江祥智作・宇野亜喜良絵『あのこ』(理論社)を読んだときの衝撃である。1966年に限定1000部で刊行された『あのこ』は、熱心なファンの心をとらえ、その後復刊された。

 「日本がいくさに負けたとしのはじめごろ、山と山にかこまれた “疎開地” の村」を舞台に、馬と話せるというミステリアスな少女を描いた絵本は、掌編小説としての完成度もさることながら、白黒で描かれた馬と少女と少年のイラストが見る者を打ちのめす。 

 

そうして太郎は、あのこに会ったのだった。

 いまでも太郎は、あのときのようすを、あざやかに思いだすことができる」(『あのこ』〈理論社〉) 

 今江祥智による文は、ある程度曖昧に描かれているとはいえ、あくまで太平洋戦争下の田舎の物語であり「お寺の裏」「庄屋の太郎」「馬と話せるちゅう女(おなご)」といった語が出てくる。いかにも日本的な野暮ったい挿絵が添えられていても不思議ではないのに、宇野亜喜良による国籍不明の少年少女は、そんな時代背景を全く想起させない。微細に描かれた絵の中の “あのこ” は、馬と見つめ合い、あるいは馬といっしょにこちらへ強烈な視線を向ける。その姿は、まるで神話の世界から現れたかのようであった。戦時下の不思議譚をつづる文章と、現代的で謎めいたイラストとが、そぐわないように思えながら一体となって強烈な魅惑を放ってくる。今江の言葉による “あのこ” と宇野のイラストとは、ほとんど運命的なセッションの見事さを感じさせた。

 

太郎は、あのこのやさしくとがった肩に血がにじんでいるのを、まぶしそうに見つめた。あのこは、くちびるまで白くなりながら、声ひとつたてなかった」(同)

 今江と宇野は、他にも多数の絵本やエッセイを共作している。“宇野亜喜良展” をきっかけに、『あのこ』に出会ったときの記憶が呼び覚まされ、今江 × 宇野コンビの仕事を既読未読含めて、改めてチェックしてみた。近作の『せんべいざむらい』(佼成出版社)などは、さすがに『あのこ』のような衝撃はなくごく普通の絵本になってしまっているが、それでも『ゆきねこちゃん』(教育画劇)は、文では大阪と北海道が舞台と説明されていながら、その地域性・時代性を逸脱する奔放なイラストには陶然となる。

 昨年、トンデモな昼ドラ『天国の恋』(2013)が静かに話題を集めたけれども、数日前に「週刊文春」をめくっていたら、シナリオライター中島丈博が『真・天国の恋』と題してノヴェライズの連載をスタートさせていた。その題字・挿画が宇野亜喜良。『真珠夫人』(2002)や『牡丹と薔薇』(2004)などで知られる中島丈博氏と宇野氏とは、年齢もさほど離れていないし、これはもしかして新たなコンビ誕生かもしれない(笑)。