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久世光彦 インタビュー(2002)・『一九三四年冬 乱歩』『蕭々館日録』(1)

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 『時間ですよ』(1970)や『寺内貫太郎一家』(1974)、向田邦子新春シリーズなど多数のテレビドラマを撮った演出家の故・久世光彦。久世は50代で文筆業にも進出し、エッセイ・小説を精力的に発表した。

 以下は2002年に行われたインタビューでBOOKアサヒコムというサイトに掲載されていた(2002年10月にアップされている)。いまは読めなくなっているので、本欄にて引用したい。久世の発言はノーカットだが、質問文は字数の関係上、少々割愛させていただいた(質問はほとんどが読者から寄せられたものである)。

Q:この10年間、小説家としてのお仕事の比重が高くなったのはどういうご心境からでしょうか。

 

A:それはぼくがテレビで売れなくなったからです(笑)。というのは、ドラマに限らず、テレビというのは若い人の媒体だと思うんです。ぼくが『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』『ムー』などの演出をしていたのは30代のときでした。テレビドラマのあるべき姿は連続ドラマだと思うのですが、50歳を過ぎた頃から、だんだん自分がそれに似合わなくなってきたんです。そうして気がつくと、ぼくは、旗日に放映される単発の監督みたいになっていた。それはそれでしかるべきだと思います。やっぱり、年齢による役割分担ってあるんですよね。

 ただ、そうなると、今度は夜の時間を持て余してしまうようになった。酒も麻雀もその前にやめているし、女遊びもこの年になると時間と金ばかりがかかる割にはつらい(笑)。ちょうどそこに原稿の依頼があったから、引き受けているうちにこれだけ書くようになったんです。結果、現在の仕事の比重は、テレビが4で小説が6。いや、テレビが4で舞台が2、小説が4といったところですかね。エッセイを含めると月に200枚ほど書いています。

 

Q:作家として、演出家として、また映像制作会社の経営者として多忙な日々を過ごす久世さんが、いつ、どこで、どのように原稿を書かれているのか教えていただけますか? ベッドでゆっくりお休みになる時間、あるのでしょうか?

 

A:標準的なタイムテーブルを言いますと、夜の10時頃に帰宅してから2時間ほど寝ます。で、夜中の1時から朝の8時頃まで原稿を書いて、新聞を読んでから昼頃まで眠って、午後2時ぐらいに出社する。テレビ業界というのは午前中に会社に来ても仕事がないので、こういう時間帯になるんです。ただ、ドラマの撮影や舞台のあるときは、朝9時頃から夜中まで現場にいるので、生活時間帯がまるで変わってきますね。

 基本的に、ぼくは自分の部屋でしか小説を書けないんですよ。たくさんの資料を使いますし、10年ほど前からワープロで書いていますので。ぼくの小説はややこしいというか、文章をいじくりまわすので、ワープロの方がやりやすいんです。でも、芝居の脚本は手書きでやっています。セリフというのはどんどん先に行っちゃうので、ワープロだとその速さについていけないんですよ。

 

Q:久世さんが小説を書き始めたきっかけを教えていただけないでしょうか?

 

A:動機を遡ると、昭和20年代のはじめ、ぼくが中学生だった頃の話になります。当時の手帳が1冊残っていて、自分が観た映画の題名ばかり書いてあるので数えてみたら、年に240本も観ていたんです。親戚に映画館の株主がいて、その人からタダ券をもらっていたんですね。ま、そういう映画少年がいたわけです。で、終戦直後の物がない時代ですから他の趣味は読書くらいで、家の蔵から新潮社の『世界文学全集』だとか平凡社の『日本大衆文学全集』などを持ち出して読んでいました。そのなかに江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』や『二銭銅貨』などが入っていたんです。『怪人二十面相』を読んでから他の乱歩作品に進む子供がほとんどだったのですが、ぼくは逆だったんです。

 もっと遡ると、最近ドラマで当たっている菊池寛の『真珠夫人』なんかは、学校に上がる前に読んでいました。横溝正史や乱歩の本もわからないながらに読んだ覚えがあります。夏目漱石を読みはじめたのは5歳のときで、『吾輩は猫である』をそらんじたりしていた。あと、親に叱られないよう、講談社の絵本をひろげて、その下にメンズマガジンの「新青年」を隠して読んでいたり(笑)。別に珍しいことじゃなく、筒井康隆さんも井上ひさしさんもそんなふうだったんですよ。つづく

 

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