母(吉川遊土)が主人公(前川麻子)を迎えに来るが、母は娘の前で男たちに輪姦されてしまう。母親が声を上げ始めると、主人公は冷蔵庫の中へ逃げ込んで涙を流す。ようやく母とともに解放された主人公は雨の中を走り出す。
この後、主人公が雨に濡れたせいか咳き込みながら海辺を制服姿で歩いているシーンで、『母娘監禁 牝』(1987)は終わる。
映画サイト(http://eiga.com/movie/68275/)のあらすじには、ラストで「(主人公は)近くのビルに入ると屋上に駆け上り、さらにその上へ飛び越えていった」とあるが、そんな場面はない。
後年、脚本の荒井晴彦がラストシーンの変更について説明している。
「俺が書いたラストシーンはお母さんの「女」を見てしまって、死ぬ理由がやっと見つかったっていうもので。屋上を走って飛ぶと。そこでユーミンの「ひこうき雲」が流れるというふうに書いたんだけど、(斎藤信幸)監督が海辺で風邪でぐすんと言ってるラストにしちゃったんだよね」(『嘘の色、本当の色 脚本家 荒井晴彦の仕事』〈川崎市市民ミュージアム〉)
サイトにはもとのストーリーが掲載されているようである。
斎藤信幸監督が死ぬシーンを改変したことによって、生死を問いかけるというこの作品の観念性や世相に対する批評性はやや後退したかもしれない。死に損ねて堕ちていったはずなのに、生きてふらふらしていては整合性もない。
だが長い年月が流れて後追い自殺がつづいた時代が過去のものになると、この『母娘監禁 牝』はいささか違った表情を見せ始める。
映画監督の今岡信治は、この映画には「ヤケッパチと居直り」があると評する。
「前川麻子は海岸を歩く。「ひこうき雲」、どこへ行くのか。もう一度、前川麻子を頭に描く。ヤケッパチと居直りが、明日への活力になることもあるんじゃないか」(「映画芸術」Vol.395)
今岡は明言してはいないが、死ななかったラストによって「明日」が見出せるということかもしれない。見方によっては、地獄を見た女性が立ち直ってまた生きていくという映画に解釈できなくもない。特に後追いの相次いだ時代が遠くなったいまは、そうも感じられる(今岡はリアルタイムで見ていたようだが)。
思えば「ひこうき雲」の歌詞は「高いあの窓で あの子は死ぬ前も 空を見ていたの 今はわからない ほかの人には わからない」と唄われている。死ぬ「あの子」の内奥は「わからない」。あくまでも第三者の立場から見つめているのであって「死ぬ理由がやっと見つか」るなどというのは遺された者の感慨としてはいいけれども、それで「あの子」の何かに迫ることができたわけではない。「私」にとって所詮「あの子」は他者なのだった。友人の死に影響されながらも結局死なないという『母娘監禁 牝』は「ひこうき雲」の歌詞の精神に則っているとも言える。
ただ風邪をひいただけなのはいかにも冴えないけれども、普通の人は「ひこうき雲」のように若く美しい死を遂げることもできずに、かっこ悪くても生きていくほかない。そんなある種の人間像を(脚本家の意図とは別だが)提示しているようにも思えるのだ。
「あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ
空に 憧れて 空を かけてゆく