『男たちの旅路』(〈1976~82〉)の(ヒロイックな)鶴田浩二さんはもうやりたくない。映画の若旦那シリーズでは下町の軽薄なへらへらした板前をやっていらした。その鶴田さんがうまいのを覚えていたので、下町の人がいい。寅さんじゃなくて何がいいかなと考えていて、オーダーシャツの職人がいい、きっとチャーミングだなと(『シャツの店』〈1986〉)。
(劇中の)カラオケで「傷だらけの人生」を歌っていただいて、これで落とし前がつくと(一同笑)。
打ち上げでぼくを呼んで「入院するけど、あなたとのつきあいはよかった」と握手されて、ちょっと変な気がした。それが最後でした。ギリギリで、笑っちゃうような鶴田さんを書けたので幸福でしたね。
【歴史ドラマに挑戦】
日本人移民の歴史をドラマにしないかと言われて、ひと月くらいアメリカを取材して『あめりか物語』(1979)を書いたんですが、でも自分はこういう歴史とか大問題には向いてないなと。こういう大きな企画はどうだと来ると、やりますと言っちゃうんですが(笑)。
その次の年は大河ドラマを書かないかと言われて(『獅子の時代』〈1980〉)向いてないなと思いつつも断りにくいですよ。明治維新で、勝ったほうと負けたほうとを同じ分量でやろうと。それで4話くらい落城の話をやっていたら、大河ドラマで落城の話ばかりやるなとか言われて(一同笑)。子どもが飢えて自分の指を食べたとか、そういうすごく悲惨な話を書いたので、視聴率は悪くないけどよくもなかったです。でも視聴率のことはあまり言われなかった。
主人公は架空の人間を主人公にしたので、それを歴史に参加させないといけない。明治のころはかなり詳しく判っているんですが(架空の人間を活躍させるために)他の誰かのやったことをかすめとらなきゃいけないんで(笑)苦労しました。二度と大河ドラマをやらない、と叫んだ(一同笑)。
石炭、石油、そして原子力とエネルギーが変わっていくのを家族を通して描くいう話が来て、当時ぼくは原子力はやばいという意識はなかったんですが(笑)。ぼくには近代日本が排除してきたものを描きたいというテーマがあって、それをエネルギーでなくてラフカディオ・ハーンを通して描きたいと(『日本の面影』〈1984〉)。
ハーン役は、ぼくはダスティン・ホフマンがいいって言ったんですが(一同笑)。ハリウッドまでさがしに行ってくれて、ジョージ・チャキリスさんがやってみたいと言ってくださった。ぼくは『ウエスト・サイド物語』(1961)であんなに足上げてた人が?(一同笑)と思って。ハーンは決していい男ではなくて、しかも片目で劣等感があった。でもNHKで会ったら繊細な感じで、ふたりで話しても向こうはぼくを見ない。役者としてすごいのか、チャキリスさんがそういう人なのか、いまだに判らないんだけど(笑)はずかしそうで素敵でしたね。
(第1話の)ニューオーリンズの場面は俳優さんがあまりうまくいっていない感じがありますが2~4話ははずかしくない出来だと思っています(笑)。
【老いのドラマ(1)】
松竹で助監督をしていたときから、笠智衆さんが好きで、でも助監督としては口も聞けなかった。テレビでは連続ものと大河ドラマに(脇役で)出ていただきました。それで笠さん主役で書きたい書きたいと思っていて、老人のラブロマンスを書いたんです(『ながらえば』〈1982〉)。
笠さんとサシで会ったら、笠さんが、
「こんにちは!」
「はい」
「いい天気で…」
ぼくも困って(一同笑)。それでもぼくは嬉しくて。
(笠智衆主演第2弾の)『冬構え』(1985)では、東日本大震災で被害にあったあたりを取材して書いた。津波よけのすごい城壁ができていてこれは壊れないだろうと思ったら、壊れたんですね。
世の中がバブルの時期に、通産省(当時)が老後を外国で過ごそうっていうキャンペーンを始めて、NHKがそれに賛同して、何か書かないかと言われました(『夕陽をあびて』〈1989〉)。スペインとオーストラリアを取材して、オーストラリアでは5、600万でプール付きの家が買えると。税率もいいんですね。シドニーやバースの日本人に取材するといい話ばかりで障害や悲しいことがなくて、これではドラマにならないなと。
ホテルへ帰ったら電話があって「みんなといっしょだからいいことを話した。自分個人としては、それだけじゃない」と。女の人は友だちつくって元気。でも退役した男は人見知りしたり、外はオーストラリア人ばかりで、自分は家で息子に送ってもらった日本のテレビ番組を見て一日が終わっちゃうと。プールも掃除がこれほど大変と思わなかったと。子どもと孫も思ったほど来ない。人によってはマイナスなんですね。
今考えるとバブルってのは、その後のことを考えないで浮かれちゃったという気がしますね。(つづく)