私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

田畑智子「『お引越し』のこと」(1994)

 1994年のある日、何気なく雑誌を立ち読みしていた筆者は、ある女性の笑顔の写真に魅せられた。その大人っぽくステキな微笑にしばらく見とれていたのを覚えている(女性と言っても相手は13歳、こっちは12歳だったが)。それは映画『お引越し』により1993年度のキネマ旬報新人賞を受賞して微笑む、田畑智子さんの写真であった。

 8000人もの応募者の中から選ばれた田畑さんは、弱冠11歳で映画『お引越し』にて主演デビューし、その年の新人賞を総なめ。以後は短いブランクを挟みつつも、現在に至るまでテレビ『私の青空』(2000)、映画『隠し剣 鬼の爪』(2004)や『ふがいない僕は空を見た』(2012)など活躍している。

 田畑さんを見出し、見事な演技を引き出したのは故・相米慎二監督。『お引越し』は、1980年にデビューした相米監督が10年以上のキャリアを経て新たなステージへと突入したように思える後期の傑作である。

 

 ひと組の夫婦(桜田淳子中井貴一)が離婚という局面を迎えた。確たる理由もなく、溝が深まってしまったらしい。

「結婚するんやったら、よく考えてしいや」

「結婚いうのはな、どっちか強いもんが無理を通す殺し合いや」

 娘のレンコ(田畑智子)は、何とか修復をと奮闘するも失敗。そして、ひとりさまよい揺れ動くレンコは、やがて家族が幸せだった時間はもう戻ってこないことを悟り、大人への一歩を踏み出すのだった。それは子どもから大人への “お引越し”の瞬間である。ラストシーンで、どこへ行くのと問われたレンコは、手を挙げて宣言する。

「未来へ!」

 のちにわかったのだが、筆者が目にした田畑さんの写真が載っていたのは「キネマ旬報19942月下旬号だった。その号に掲載された田畑さんの手記を、全文引用する。

『お引越し』のこと  田畑智子

 今は「よくまあ、私に映画の主人公ができたなあ」と思っています。そして、とてもうれしく思っています。映画にでていなければこうして新人賞も頂けなかったし、映画をとおして出会った多くの人達とも出会ってなかったのですから。色々な事を多くの人達に教えられました。それは学校でも家庭でも友だちでも教えてもらえない勉強だったと思います。大勢のスタッフが真剣に、一つのものを作っている姿にはげまされて、朝、すごく早くて眠かったし、ウルシバ(引用者註:漆場)家のセットは蒸し風呂みたいだったし、レンコが走った京都の町は本当に暑かったし、そんなことでとても大変だったけど、最後まで頑張れました。私のどこにそんな頑張る力があったのだろうと思いますが、監督をはじめ、スタッフ一人一人のみんなのおかげだと思っています。本当にありがとうございます。

 相米監督の印象は、初めてオーディションで会ったときは、すごく無口な人だなあと思っていました。

 ところが撮影が始まってからはころっと変ってしまい、私に、タコ” “ガキンチョ” “娘っ子(まだまだあったと思います)とか色々、むかつくことばかり言います。四条大橋から、撮影が終ったら投げてやるぞと思ったことも何度もあります。でも今はとても感謝しています。最後の打ち上げの時は、みんなにありがとうとちゃんと言わなければいけなかったのに涙ばかりがあふれて、あいさつができずに本当にごめんなさい。

 おかあさんの桜田淳子さん、お父さんの中井貴一さん、いつも私がお芝居をできやすい様にやさしくしてくれてうれしかったです。

 今、ビデオが出ていて、たまに観ます。一つ一つのシーンの思い出がとても懐しく、そしてその思い出が私の一番の宝物です。琵琶湖の朝の水の冷たさや、山歩きのシーン。あの時はたいへんだと思っていたシーンがとても良い思い出になっています。六年生の夏休み、宿題は完成しなかったけれど、一日も友達と遊べなかったけれど、私にとっては素晴らしい夏休みでした。

 

 私と同じに今頃、レンコももうすぐ中二になるのだなあと、最近思うことがあります。いつか、本当にいつか、私がもう少し大人になったら、もう一度、ウルシバレンコという役をやってみたいと、思うことがあります。その時は、監督にガキンチョといわせないように、と思っています。

 

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