私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(5)

f:id:namerukarada:20200709210615j:plain

 演出家と脚本家の関係みたいなことについて、脚本家側からどう思うかということですが。で、どういう違いがあったか…。

続きを読む

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(4)

 ピンク産業についてどう思うかということなんだけれども…。

 今は鈍感を競い合うようなところがありますよね。男なんか特に鈍感だと男らしいと思われるところがあってね…。でも、大体セックスっていうのは哀しいもんていうのかな、離れてみると哀しいよね。どうしてあんなふうに抱き合って…なんか、フェリスであまりこんな話していいかわからないけど…。そういう欲望というのは哀しいときがありますよね。女性はそうではないかもわからないけど、男の場合は正直言うと誰とでもいいときがあるわけですね、女ならね。欲望が非常に強いときはね。そうすると、ものすごく自分が嫌になるというのかな。そういう部分とか、なんか心の交流がなかったら、ほんとに欲望をはき出すのが嫌だとかね。それから、自分の欲望の部分に疲れて、「おにいちゃん、どう?」と言われて、ふらふらそういう所へ来て、のぞき部屋なんていう所でのぞいているというのは、我が身に振り返れば寂しいですよね。僕はそういう所へ行かないけれども…。

続きを読む

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(3)

 早春スケッチブック』をご覧になった方には余計なことだけれども、小市民社会、僕も小市民社会の中で臆病に生きている人間ですけれども、そういうところで生きている人間の価値観みたいなものをね、テレビというのは実に批評しないわけですね。テレビを見て下さる方の大半は小市民だから、その人達の哀歓というのかな、悲しさとか喜びとかというものを批評しないことが一応前提となってるということがありますね、テレビドラマというのは。そうすると、お父さんは非常に苦労しているけれども、家族を守って地道に生きているのに何が悪いというところを批評しないわけですね。

続きを読む

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(2)

 映画の場合当然だけれども、面白いか面白くないかということで判断するんですね。でも人間の事実の中ですばらしいけど面白くないものってものも、ものすごくあるわけですね。面白くないものは省いてしまう、描写できないってふうになっている。それから、ストーリーを求めるということですね。ストーリーっていうのは、例えばここで僕がこういう話をしますでしょ。そうすると話が非常に断片ばっかりで収拾がつかないまんま終るとね、なんとなく気に入らない。一つのストーリーがあって、起承転結があって流れがあると納得するというかな。そういうふうなストーリー主義からはみでるようなものは駄目である。今の映画というものは大半はそうだと思うんです。そのために事実というものを捉え損なっている。本当の事実というのは普遍性とか共通性とかから離れてしまうものが沢山あるわけですね。

続きを読む

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(1)

f:id:namerukarada:20200709210905j:plain

 脚本家の山田太一先生が代表作のテレビ『早春スケッチブック』と『ふぞろいの林檎たち』を相次いで送り出した1983年に、フェリス女学院大学にて講演を行った(1983 年11月3日)。その記録を入手したので、以下に引用したい。用字・用語は可能な限り統一し、明らかな誤字は訂正した。

続きを読む